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それは、福島原発事故が起こって以来、「なぜ、これまで政府、法律、権威、官庁の指導等を重んじてきた人たちが、ほぼ1、2年で自由奔放な考え(被曝について、これまで自分が行ってきたこと、法令の精神や規則、通達を無視すること)に変わったのか?」ということでした。略
今から70年ほど前、戦争が終わった頃、あれほどアメリカを憎み、戦争を賛美した人たちが保身のために新政府の要人に身の安全を頼む醜い姿を思い出します。
(事故前)原発は危険がある。被曝はとんでもない。法令は守れ。大臣の指示は重視すべきだ.日本人に誇りをもて。
(事故後)原発は安全である。被曝は問題ない。法令は守らなくても良い。大臣が決めた事故時の基準など無いも同然だ.外国のNPO(ICRP)が日本の法令に優先する.危険でも原発を再開しろ。
一般の知識人がもっとも大きく変化したのは「被曝」についての感覚だとおもいます。事故の前は「放射性物質」というととにかく避けようとしたものですし、連続的にレントゲンを10回もとるというと、「そんなことできるかっ!」と激しく言った人が、原発事故の後は子どもたちに1年400回のレントゲンを心配するお母さんに「ヒステリー」と非難するようになったことです。その典型が朝日新聞です。
これらの人たちが事故後に勉強したということではありません。おそらく1年1ミリ(一般人の被曝限度)、1年0.05ミリシーベルト(原発敷地境界)、それに1キロ100ベクレル(一般物の汚染限度)などもともに学んだはずですが、自分に都合の良い数字(1年100ミリ)だけを受け入れたのです。
知識人がそれまでの信念を捨てて電力にすり寄った原因の一つは、「福島の人が病気になるのだから、俺には関係がない。それより少しでも経済が停滞する方が俺には問題だ」という思いが心の底にあるのでしょう。福島の人の健康より、自分の所得が1万円でも減るのが困ると思っているのでしょう。そのような自分の心の底にある「利己的正しさ」を隠すための学問がヨーロッパの倫理学、その言葉が「絆」だと思います。武田邦彦
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