霧の音
日本アルプスを望む信州の山小屋。仲秋の月の出を待つ幸福そうな三人連れは、新婚の娘悠子とその夫八木正男を伴った老植物学者大沼一彦の一家である。一彦の胸に十年前の思い出が蘇る。昭和二十二年秋、東京の喧騒と婦人運動に熱中する妻を嫌って、この山小屋で植物採集に専心する少壮の一彦の身辺には、若く美しいつる子が働いていた。彼女は家政婦として大沼家に入ったが、孤独な一彦との間に、いつしか愛情が芽生えた。だが、その幸福は突如山小屋に現われた妻勝代によって破れた。つる子との仲に冷い疑惑の目を注ぐ妻に一彦は激怒、勝代は山を下りた。つる子も、子まである一彦の家庭を破壊することを恐れ、秘かに山を下る。それから三年。同じく仲秋名月の山小屋に十四歳の悠子を背負い一彦が訪れた。山小屋はクラブになっていた。一彦はその年の春、勝代を亡くし、つる子の面影を慕って来たのだ。同じ山小屋の離れでは土地の牧場主源吉が芸者達を連れ酒盛りを開いていた。それは源吉が惚れている一代という芸者に迫られての月見だった。一代とは、その後田舎町の芸者となったつる子であった。しかし突然の悠子の発病で一彦は急遽下山、運命は二人を逢わせなかった。それからまた三年。三たび仲秋名月の夜、一彦は悠子を連れて山小屋を訪れた。悠子は、そこで知合った八木とその後結ばれたが、一彦は再会した源吉に彼の妻を紹介された。それはつる子であった。総てを知った二人は黙するのみ。一彦は彼女の幸福を祈って下山した。また三年仲秋名月の夜、四たび一彦は山小屋に来た。が、そこで知ったのは、つる子の死。幸福そうな娘夫婦をよそに、孤独に耐え切れぬ一彦は月の光を含んだ霧の中で嗚咽した。
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