どうしても天皇家神話を覆す古代文字の存在は認められないという捏造の歴史が日本には漢字が輸入されるまでは、「文字という文化がなかった」ということにしたい権力の企てよって歪められ続けてきている。
言語の歴史を支配することが権力を支配することと同じ力があるという原則論が理解できない限り真実を見るための扉は永遠に開かない。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L9/190908.htm
明治の国学者によって忙殺された古代日本文字
「奈良時代以前にわが国独自の文字があったか、無かったか?」という論争の際、よく引き合いに出されるのが、伊勢神宮の奉納文や竹内文書や九鬼文書、上記、神皇記などといった文献などの他、秀真文字、岩戸蓋文字、上記、豊国文字、阿比留文字、出雲文字、阿波文字などの各地に伝えられた文書に使われていた文字である。
それらは昭和48年に伊勢神宮が公開した神宮文庫資料によるもので、私も親しい神宮関係者からそれらの幾つかを複写で分けてもらった。
稗田阿礼や平清盛、源頼朝などの奉納文もその中にあった。それらの解説は、豊国文字や阿比留文字、阿比留草文字などのコード表があれば誰でも出来るものである。
試しに私は高等学校の考古学クラブの生徒たちにコード表を渡して解読させてみた。彼らはすぐ読んだ。また、福岡県東部老人大学や大学院の歴史講座にそれらを持ち込んで、同じくコード表を配って解読を試みてもらったのだが、これも二百人の受講者の九割が完全に読めた。次に揚げる資料を読者もコード表使って試みられると良い。皇室の祖廟であり、時代が変わっても、いわば日本国民精神の中枢に何千年の間神聖な神社として認識されていた伊勢神宮に奉納した歴史上の人物が、当時存在しない文字を使ってそれらの文章を納めたとは考えられないことから、「伊勢神宮が公開した奉納文は先ず偽物ではなくて本物である」と認識すべきものであろう。
そうでなくては、伊勢神宮の存在自体が怪しいものと認識されなければならない。その論理がわかっていたのか、いなかったのかは知らないが、伊勢神宮を学問的に擁護すべき立場にあった神宮皇學館大学の学長・山田孝雄博士は、昭和28年に、「これらの奉納文は紙質、墨色から見て明治初年頃を下るものであるから、書写年代が新しいと見られ、偽物である」と断定した。
その上、「これらは何を基にして書写したのかもわからない。とにかくこれらは神宮教院で製したものである」と言っているから、山田博士の論理からいえば、伊勢神宮がそれらの奉納文を故意に捏造し、その作業は明治政府の政令によって設置された大教院(教主は皇族の朝彦親王殿下)が実施したということである。つまり、政府機関と皇族が作為的に皇室祖廟の奉納文を歴史上の人物の名をかたって、でっちあげたという論理になる。もし、その山田孝雄博士が神宮皇學館の学長兼神宮文庫の館長としてそのように言いはったのであればそれはそれで良い。その論理は伊勢神宮の虚構性を傍証するものとして国民は受け取ることになる。果たしてそれで良いのだろうか? 今は故人の山田博士がもし存命中なら、「いや、それは困る」と撤回するのは明白である。元来、神社や寺社に奉納するのに、言い換えれば神仏に奉納する文書をわざわざ捏造する人はまず居ない。仮にいたとすれば、それなりの強烈な意図があってのことだ。
故人の論理を追求しても仕方のないことであるが、山田博士は式年の故事と伝統を考慮に入れての判断であったのかと疑うものである。日本古代史について学会の定説として継承されて来ていた「漢字渡来以前の日本には文字はなかった」という国学と史学の基礎を根底から覆されることのみを恐れる余り、「上代にはいわゆる神代文字はなかった」ことを強固にするために、うかつにも伊勢神宮の式年の故事と伝統を考えに入れ忘れたとしか思えない結論であると私は判断する。
一定期間をおいて神殿を建て替え、ご神体を移す「式年遷宮祭」は、伊勢神宮では今は20年ごとに行われている。その式年遷宮祭では、神殿はもちろんのこと、祭器も神具もすべて新しいものに変えられる。そのために伊勢神宮の宝物や祭器、神具、衣装などを専門に復元制作する職人は、古代からの技法を世襲して守り伝えてきた。
神剣も器も神官の衣装も履き物も、古代さながら新しく作る必要があるため、素材の選別、砂鉄の採取、繊維の収集と紡錘、木材の伐採に至るまで有色故実の業が不可欠であった。そのおかげで、日本古来の文化が守られて来たといえるのである。
従って、山田博士の言う「明治以降に大教院が複製した」ことを容認したとしても、「その書写は捏造のためではなくて、式年遷宮のためでもあった」と理解すれば済むことである。
つまり、奈良、平安の時代に奉納された物を、式年遷宮のために復元再製したのだ。従って、その紙質が仮に新しいと見えてもそのことは奉納文の文字が上代に存在しなかったことの否定論拠にはならない。
ただ問題なのは、紙質や墨色の主観的印象だけでは本当の紙や墨の年代決定は出来ない。紙の繊維については電子顕微鏡による分析やスペクトル検査などの繊維学上の科学検査、墨についてはC14放射性炭素法やウラン元素法、アルゴン酸素プラズマ法などの年代測定法使って精密な年代計測をした上で、山田孝雄博士が判定したのなら納得できようが、単に個人的印象による結論であれば問題が残る。つまり、山田博士の判定は、伊勢神宮の式年遷宮や、それに類したしきたりによる書写行事の無視による独断判定のそしりを免れない。今は式年遷宮は20年ごとであるが、それも世の中が安定してからのことであって、戦国時代や鎌倉、平安、更に奈良時代以前となると、式年遷宮自体が膨大な経済支出と労力を伴うものであることから、あるいは百年とか五十年とかの年期の時代もあったことだろうし、まったく数百年の間、何もされなかったこともあったはずである。しかし、そうした事情の想定でさえ奉納文の文字が存在したことの否定論拠とはならない。
言い替えれば、山田孝雄博士は、その学者としての社会的地位と名声を利用して、科学的根拠なしに神代文字、漢字以前の日本の文字を否定し、抹殺しようといわれても仕方がないのである。
山田博士の意図はとりもなおさず、日本の国語学会や史学者の意向でもあった。漢字以前に日本の文字があったのでは古事記、日本書紀の否定につながり、記紀を国体の原点とする「万世一系の天皇を奉じる日本」という史観を維持するのが困難となって困るという観点からである。もっとも、その危惧は偏狭な学者の憶測に過ぎない。記紀以前に文字があって、その文字で記録された記紀以前の歴史書があったからと言って、それは決して天皇家が長い歴史を通して国民の尊崇を受けて来たという事実を否定するものではないし、国体の尊厳を汚すものでもない。
むしろ、記紀以前の遙か数千年前から神代文字とされるものがあって、そうした文字で記録された記紀以前の歴史書が各地に伝承されていたもの参考にし、改廃して編集して作られたものが記紀であることを認めることこそ、記紀の存在価値を高めるものだろう。なぜなら、記紀時代に、「一書に曰く」とか、「又ある書曰く」などと数多の記述があり、それらは明白に「記紀以前に同様な記録書があり、それぞれの地方にも歴史書が伝わっていて、それらを参考にして記紀が編集された」ことを述べているのである。
日本の史学や国学がその延長線上にあるうちは、決して本物の科学も日本では進まない。山田孝雄博士を代表とする「漢字渡来以前は日本に文字はなかった」とする学派を一掃し、そうした偏狭かつ独善的な学者や「長いものに巻かれろ」方針の追従学者を追放することから、本物の歴史学や国学が始まるのである。そのことはわかってはいても、物証としての「漢字以前の文字」の証明を具体的に示すことが出来ないという理由で、これまで多くの学者が山田孝雄学説に異論を唱えなかったのだ。
「神字日文解」吉田信啓・著より
転載元http://f35.aaacafe.ne.jp/~shinri/kamiyomoji.html
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