褒 められるような動機ではないのですが、きっかけは高校時代の落ちこぼれ生活にあります。高校時代はボート部に所属し、ほぼ全てのエネルギーを部活に注力 (彼女作りには5%程注力)していたため、学業の方は完全に落ちこぼれでした。二年次には授業もほとんど出ず、進級が危ぶまれるほどでした。三年次の担任 の先生からも、「お前はボートのスポーツ推薦でしか大学に行けない」と強引に推薦入学を決められそうになるほどでした。ただ、パンツが血まみれになる日々 から脱却したかったため(ボートはお尻の皮がむけてパンツが血だらけになることがあるのです)、担任の先生に頼み込んで、一般受験をさせて頂くことになり ました。
しかし数学が苦手であったため、数学の配点が低い国公立文系(地方の県立高校であったため、センター試験の受験が必須でした)の法学部を選ぶこと にしたのです。ちなみに法学部とは何ぞやと、受験ガイドのようなもので調べたところ、弁護士になるための学部で、弁護士になれば高収入が確約されているとありました。
当時のF1ブームでスポーツカー好きだった私は、
「法学部に入る=弁護士になれる=フェラーリが買える」
という大変低俗な発想で、法学部を受験することにしたのです。
もっとも、浪人して国公立を目指すつもりでしたが、父が当時東京に単身赴任していたため、遊びがてら東京の私学を受けることにしました。たまたま高輪に あった父のワンルームマンションのすぐ裏手に、明治学院大学がありました。そこで明治学院を受けるべく願書を購入したところ、送られてきた受験票の試験会 場は何故か御茶ノ水。そんなところにも校舎があるんだと思いつつも、よーく見ると、指定された受験会場は明治大学でした。不勉強な私は、明治学院大学と明 治大学が違う大学であることを知らずに、間違えて明治大学の願書を購入していたのです。 勿論、明治大学に入学する意思は1%もありませんでした。
最後の受験科目である日本史のテストでは、答えが分からない箇所に当時の彼女の名前を記入し、試 験開始後30分で早々に退席して地元の神戸に戻り、彼女と遊び呆けておりました(ちなみに当時の彼女は大変真面目な方でした。呆けていたのは私だけです)。
しかし何の因果か明治大学に合格してしまいました。入学するつもりはなかったのですが、祖母が涙を流して喜んでくれました。道を踏み外していた私が大学に 合格できて嬉しくて仕方なかったのでしょう。というわけで、何となく周りの雰囲気に流されて、明治大学に入学することになりました。
入学してからは、初志貫徹(フェラーリを買う)とばかりに、司法試験の勉強を始めました。当時は、超難解な司法試験を受けるためには予備校に行くのが王道 だったのですが、明治大学は法律学校として創立された歴史のためか、予備校に行くのはご法度とされておりました(勿論、校則ではありません)。
象牙の塔のような研究室で、難解な基本書を読み読み、OBの先輩方に週末講義をしていただくという、なかなか特殊な世界でした。ただ、当時の司法試験合格 の平均年齢は28歳程度でしたので(受験歴25年以上の神の領域に達する大先輩もおられました)、まずは将来の生活費を貯めるべく、入学してすぐに大学の 隣にあった神戸ラーメンというお店でアルバイトをはじめました。人手不足のお店でしたので、頼まれるままに昼前から深夜まで、毎日ほとんどの時間をラーメ ン店の店 員として猛烈に働いておりました。雑誌の「働く美少年」コーナーで取り上げられたこともありましたが(←プチ自慢です)、内心では、「俺の湯切りのテク ニックをもっと取り上げてくれ」という思いがありました(意外と硬派です)。
話がそれました。一日二食ラーメンを食べる日々が続き、当然のことながら司法試験の勉強はすぐさま落ちこぼれに。自分には司法試験は無理なんじゃないかと の思いがつのってきました。
そんな頃、研究室の飲み会の席で「自分は司法試験に向いていないと思うのですが。」と先輩に相談をしてみました。すると「和田 君は、向いてないんじゃない。司法試験だけが人生の全てじゃないよ。」とあっさり言われました。その一言に私も変に勇気付けられ、「ですよね~!」と即座 に弁護士の道を断念しました。
当時の私は、「男の決断は、麺の湯切りの如くあれ」という自分で作った中途半端な造語で、自己満足にひたっておりました。気 分は落合信彦です。当時流行した同氏著作の「狼たちへの伝言」の影響を過分に受けておりました。 そして、将来の生活費にとの思いで貯めていたバイト代(7桁を超える額)を、二年生の夏休みで使い切ってしまいました。
「俺もノビー(落合信彦のニックネーム)になる。」とばかりに、バックパッカーとしてアメリカ縦断旅行をしたり、憧れの車(日産シルビアです。チャラくて御免なさい)を購入するなど、見事にひと夏で使い切りました。
しかし、その後は苦悩の日々が続きます。車の維持費やらを捻出するために、相変わらずバイト漬けの日々でしたが、明確な目標も見出せず悶々とした思いを 持ち続けておりました。カミュやらドストエフスキーやら武者小路実篤やら、大学生協で販売している書籍を片っ端から読みまくりましたが、勿論そんなもので は人生の目標は見えてきません。金持ちでもない実家に無理をしてもらって、わざわざ東京の私学に行かせてもらっているのに、本当にこのままでいいのだろう か・・・そんな思いに苛まれながら、ラーメンを茹で続けておりました。 湯切りのテクニックだけは益々上達していきました。 3年生のある日、自宅で寝転びながら何気なく雑誌を読んでおりました。そこには「Jリーガーの愛車自慢」という特集が。既にイタリアで活躍をしていたカズのポルシェをはじめ、錚々たる高級車が取り上げられておりました。
そしてカズは次のようにコメントしておりました。
「絶対にポルシェに乗ると小さい頃から決めていた。」
私の体中に稲妻が走りました。「俺がわざわざ東京に出てきたのは、これじゃないのか!フェラーリに乗るためだろ!」
私は初志を思い出しました。そしてフェラーリのF355が掲載されていた自動車雑誌の「ル・ボラン」をまずは購入し、「いつかこいつに乗ってやる。」と体 中に焼き付けました。
その上で、再度司法試験の勉強を再開することにしたのです。何とも不純な動機ですみません。
しかし、勉強を本気で再開して間もない3年生の冬に、阪神大震災が起こりました。実家は壁が崩落し、いわゆる全壊扱いになりました。幸い家族の命に別状は ありませんでしたが、経済的な事情から、司法試験の断念はおろか、大学の中退も頭を過ぎりました。両親におそるおそる相談しました。両親は、「お金のこと は気にせんと、自分のために頑張ったらええ」とだけ言ってくれました。避難所暮らしが続く中、本当に大変な状況であっただけに、感謝の念に耐えませんでし た。
明治大学も、自宅が全壊した学生の学費を全額免除してくださいました。涙が出るほどありがたかったです。 当時通っていた馴染みの定食屋のご主人も、「少ないけど、これ・・・」といってお見舞金をくださいました。大学のサークル仲間も皆でカンパしてくれました。本当に多くの方々に支えていただきました。
応援してくださった皆さんのためにも、絶対に合格してやる。そう誓って、必死に勉強しました。ラーメン屋やホテルの夜勤で働きながらの勉強で、肉体的・精神的にもハードな日々でしたが、日本で一番勉強してやると心に誓いました。
そして大学を卒業した翌年に、幸いにして司法試験に合格することができました。
司法試験合格後は、司法修習生という身分で各地に配属されます。私は大分県に配属されました。この実務修習では、裁判所、検察庁、弁護士事務所のそれぞ れで実習をします。まずは検察修習から始まったのですが、弁護士志望の私は当初検察には興味がありませんでした。しかし、逮捕された被疑者の取調べを続け ていくうちに、段々と考えが変わっていきました。検察官は被疑者を懲らしめる立場にあるイメージがありますが、実際のところ、被疑者と最も多くの時間を共 有するのは検察官です。被疑者の家族を呼んで話を聞くこともよくあります。被疑者の家族は、文字通り悲惨な状況に追い込まれます。幼い子供をはじめ家族に 罪はありませんが、生きていくことが困難に感じるほど厳しい状況に追い込まれます。
検察官の仕事は罪を罰することにありますが、他方で、罪を憎んで人を憎 まずという格言のように、人を更生させていく役割も担っています。何とかこの被疑者を真摯に反省させ、まっとうな人間に戻ってもらいたい。そう思ううち に、検察の仕事に魅力を感じるようにもなりました。
私達の指導担当であった若手の検察官は、魅力溢れる素晴らしい方だったのですが、その方から検察官にならないかとお誘い頂きました。また当時の大分地検の トップも私が心から尊敬する方だったのですが(後に検事総長(検察庁のトップ)になられました)、その方も検察官になれと勧誘くださいました。
当時の検察官は、なりたくてもなれない非常に人気の高い職業であっただけに、誠にもったいない話です。が、とある事件の取り調べを行った時に、自分は検察官には向いていないのではないかと感じるようになりました。
それはある未遂事件で大きな被害は無かったのですが、被害者の方が当然ながら非常に怒っておられました。勿論、検察側として厳しく取調べをしておりました。
しかし、被疑者の家族から事情を聞くと、小さな子供もおり、本当に生活に行き詰ってしまうような状況でした。しかし当の被疑者は、被害者を誹謗してば かりで、全く反省の色がありませんでした。
まだ24歳だった血気盛んな私は、「家族がどれだけ大変な状況に追い込まれているのか、あなたは理解しているの か?お子さんは、世間の目があって、おまえの逮捕以来、外で遊べなくなっているんだぞ。今ここでお子さんの顔思い浮かべてみろ。」と偉そうに話しました。
すると被疑者の目からボロボロと涙が溢れ出し、心のそこから謝罪をはじめました。
何とかこの被疑者を更生させたい。そして家族の苦痛を少しでも取り除いてあげたい。そう思った私は、被害者の方に電話し、示談に応じられないか聞いてみま した。
すると被害者の方から「あなたは検察でしょ?示談の話まで持ち出すのはおかしいでしょ?」と言われてしまいました。被害者の意見はまさに正論でし た。
検察としては、そこまで干渉してはいけないのです。「目の前で困っている人の為に、何とかしてあげたい」という気持ちが勇み足になってしまったので す。国家権力に属することの限界を感じました。「目の前の困っている人のために、自分の全てをかけて行動することこそが、自分の使命ではないのか」、そう いった思いがふつふつとわいてきました。「弁護士になろう。人様のために自分が納得できるまで死力を尽くそう」、そう決めました。
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