「神秘家の道」というウルグアイでの講話のなかに、OSHOみずからが語るmindの定義について
OSHOでさえ、脳(brain)と心(mind)の使い分けは混同して間違うこともあるそうですから、mindという単語をみかけたさいには、この二つを混同せず、識別してゆく必要がありそうです。これはとりわけヒンドゥー語レクチャーからいったん英語訳を経て日本語訳されているものをチェックするときに必要な感じがしています。
内容的には、このところ続いているMacの不調とデータの修復保全の話ともシンクロしているようでおもしろいです。
これはOSHOがときどき「赤ん坊は、まっさらな心(mind)をもって生まれてくる」と話すことがあることに対して、ある人が、「では、どうして過去生を想い出したりするのですか?」と尋ねたことに対する応えです。
仏教における唯識の構造とも重ね合わさってくるところが多々あるのが興味深いところです。マインドの各層を表すマナスの総体であるところのチッタムが、意識であるチェタナにしがみついているといった表現はまさに圧巻です。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
OSHO
理解しておくべき区分がひとつある。脳(brain)と心(mind)の区分だ。脳は肉体の一部だ。子供たちはみな新鮮な心ではなく、新鮮な脳を携えてやってくる。心(mind)とは、意識を取り巻いている条件付けの層をいう。あなたはそれを憶えていない。断絶があるのはそのためだ。
人が死ぬたびに、脳も死んでゆく。だが、心(mind)は脳から解き放たれて、意識の上の層となる。それは物質的なものではなく、ある種の波動にすぎない。だから、私たちの意識の上には何千もの層があることになる。
「子供は何も書かれていない石板のような心(mind)を携えて生まれてくる」と言うとき、私は脳のことを言おうとしている。心(mind)は非常に古い、存在と同じくらい古い。それには始まりがないが、終わりがある。何世紀にもわたって蓄積してきたこれらの層を落とすことができる日、心(mind)は死ぬ。それは終わりを迎える。それと同じ言い回しで、「光明には始まりがあるが終わりはない」ということを理解しておかねばならない。そうすればそこにつながりが見える。
心(mind)には始まりがなく、常にあなたとともにあってきた。そしてある瞬間がやってきて、あなたはそれを落とす。心(mind)の終焉が光明だ。
そこからは光明が続いてゆく。それには始まりがあるが終わりはない。この二つを合わせることで過去から未来へと到る、永遠のすべてが包含される。
だが、脳は肉体に宿るたびに生まれ、肉体を離れるたびに死んでゆく。ところがその中身(それが心なのだが)は死なない。それは意識とともに残る。過去生を想起できるのはそのためだ‥‥動物や木々、岩だったときkの記憶さえも。これらの心(mind)はすべて今もあなたのもとにある。だが、心理学が脳と心(mind)を区別しないために、科学がその区別を認めないために、英語の脳(brain)と心(mind)は、ほとんど同義語になってしまった。ときとして私でさえもうっかりして脳(brain)と言うべきところを心(mind)と言ってしまうことがある。
内的なリアリティへの深い探究を行った言語には、これらの異なる現象を描写する言葉がある。これらの言語には脳(brain)を表す言葉があるが、それが心(mind)と混同されることは決してありえない。英語の心(mind)という言葉もサンスクリット語のマナス(manas)からきているが、マナスというのはそれぞれの層を表している。動物のマナス、植物のマナスなど、あなたが通り過ぎてきた様々な進化のステージがある。
そして心の全体は、サンスクリット語ではマナスとは呼ばれずに、チッタム(chittam)と呼ばれている。それがチッタムと呼ばれるのは、それが肉体の一部ではなく、意識の一部だからだ。サンスクリット語では意識はチェタナ(chetana)と呼ばれている。チェタナにしがみつくがゆえに、それはチッタムなのだ。こうした言語は、言葉とその意味において明晰だ。だが、それは彼らが働きかけ、こうした違いを見出したからに他ならない。
チッタムは過去のすべてであり、すべての心(mind)は、集合的にチェタナに、意識にしがみついている。それらは丸ごと脱落する。それらが脱落するときには、まるで服を脱いだかのようであり、意識が丸裸になる。この丸裸の意識こそが存在(being)の究極の体験だ。
脱落した心(mind)は、脳の地下室に存続する。だから、光明を得た人でさえ使おうと思えば使うことができる。ちょうど家の地下室に行って、投げ込んだガラクタを通して見るようなものだ。
脳(brain)は、最新の層であるが、脳そのものは層ではない、中身ではない。脳そのものは単なるメカニズムにすぎない。それは生体コンピューターなのだ。コンピューターを購入したとき、それは空っぽだ。入力がなく、真新しい。それからあなたは求めている情報を何でも詰め込みはじめる。歴史、科学、宗教、数学など、コンピューターを育てたいものなら何でもだ。
(中略)
脳は問題ではない。なぜならそれはひとつのメカニズムにすぎないからだ。問題は、脳の中身であり、それが心(mind)だ。脳は容器にすぎない。再誕生するたびに、あなたは新しい容器を手に入れる。古い中身は、意識を取り巻く層へと移送される。
だから、フレッシュな始まりを得るというとき、私が言おうとしているのは脳のことであって心のことではない。だが、英語では、それれは同義語として用いられている。過去生のなかに入ってゆきはじめたなら、あなたは心(mind)の世界に入ってゆきつつある。それは測り知れなく、それぞれの層がひとつの生を明らかにしてゆく。すべての層を意識的に通り抜けることができたら、そのとき初めてあなたは意識の中心に到りつく。
ヒンドゥーの寺院は、マンディールと呼ばれる。境界の壁は心(mind)を表している。内側に入ってゆくと、中心には神像が祀られている。ジャイナ教の寺院はチャイチャラーヤと呼ばれるが、それにはわけがある。チッタ(chitta)、心(mind)の層をトータルに通り抜けることができたとき、そのとき初めてあなたは寺院の中心である意識に到ることができる。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。