木村重成(しげなり)といえば、慶長20(1615)年5月の大坂夏の陣で、豊臣方の主力として東大阪市南部方面に進出し、藤堂高虎の軍を打ち破ったものの、井伊直孝との激戦に敗れて戦死した武将です。
日頃から冷静さと勇気と仁愛にあふれた武将として名を馳せ、首実検のときに頭髪に香が焚きこめてあり、家康が「大切な国の宝を失った」と涙をこぼしたという逸話があります。
討ち死にしたとき、若干22歳でした。
この木村重成が大阪城詰めの頃のことです。
若い武将ですから、まだ戦場での実践経験がない。
教養があり、人柄が立派で、美男子・・・となれば、やはり中には妬(ねた)む者もいます。
大坂城内の茶坊主の山添良寛(やまぞえりょうかん)もそのひとりでした。
良寛は、茶坊主とはいっても、腕っ節が強く五人力の力自慢だったそうです。
「まだ初陣の経験もない優男(やさおとこ)の木村重成なんぞ、ワシの手にかかれば、一発でのしてやる」と仲間内で自慢していたのだそうです。
おもしろいもので、人というものは、分もわきまえずに日頃からこのような低レベルな自慢話をしていると、だんだんと周囲から押されて、本当に対決しなければならないような気分になってくるものです。
本当は、大切なことは、自分自身を高め、成長させていくことなのであって、いたずらに対立したり対決したりすること自体が、程度の低い、人間の品性を落とすものです。
けれど人というのは、ときにこうした歪みに陥り、間違いを犯します。
ある日のこと、大坂城内の廊下で木村重成に出会った良寛は、わざと手にしたお茶を木村重成のハカマにひっかけました。
「気をつけろい!」と、良寛が重成をにらみつけました。
良寛にしてみれば、喧嘩になればしめたもの。
木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくと思ったわけです。
すくなくとも、評判の良い木村重成が茶坊主と喧嘩したとなれば、なるほど良寛には仲間内でのハクがつきます。
ところが木村重成、少しも慌てず、
「これは大切なお茶を運ぼうとしているところを失礼いたしましました。お詫びいたします」
と、静かに頭をさげるのです。
もともと良寛の目的は重成に喧嘩を売ることです。
嵩(かさ)にかかった良寛は、
「そんな態度では謝ったことにはならん。
土下座して謝っていただこう!」と声を荒げました。
良寛にしてみれば、怒らせて手を出させればこっちのものです。
ところが木村重成は、
「それは気がつきませなんだ」と、膝を折り床に膝をついて、
「申し訳ございませんでした」と深々と頭を下げたのです。
喧嘩にはならなかったけれど、木村重成に膝をつかせたことですっかり気をよくした良寛は、
「木村重成など喧嘩もできない腰抜けだ。
ワシに土下座までして謝った。
だいたい能力もないのに、日頃から偉そうなんだ」と、
あることないこと木村重成の悪口を大坂城内でふりまきました。
日頃、たいへんな人気があり、尊敬を集めている重成です。
誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、武将としても凛としてたくましい風情です。
それだけに良寛のまき散らしたウワサは、たちまち広がりました。
立派だと思われている人に関して、これをこき下ろすような論評に接すると、人は自分が思っているイメージと、ウワサの落差から、自分の中でその情報を消化できなくなります。
すると不安になり、その不安を埋めようとして、かえってその情報を強く認識してしまうというものです。
こうしてウワサが、一層広まるのですが、これを「認知不協和」といいます。
なまじ日頃から評判の良いしっかり者の重成だけに、茶坊主に土下座したという貫禄のなさは、大坂城内の、まさに笑い者として語り草となっていったのです。
この時代、まだ戦国の世の中です。
大阪の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからない。
まして戦国武将といえば、常にある程度の武威を貼らなければ、敵からも味方からも舐められる。
舐められることは、それだけで武将としての沽券にかかることです。
そんなウワサは、重成の耳にもはいってきました。
登城すれば、周囲からは冷たい視線が重成に刺さります。
心配して周囲の人が、「よからぬウワサが立っていますよ」と忠告もしてくれます。
けれど重成は、まったく取り合いません。
ウワサは、重成の妻・青柳の父の耳にも入りました。
実はこの父親、とんでもない大物です。
重成の妻は青柳(あおやぎ)という名のたいへんな美人なのですが、この妻の父親は大野定長(さだなが)といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長(はるなが)の父親であり、戦国の世で数々の武功を立てた猛者です。
可愛い娘の旦那が「腰抜け」呼ばわりされているとあっては、大野の家名にも傷がつきます。
「よし、ワシが重成のもとに行って、直接詮議してくれよう。
ことと次第によっては、その場で重成を斬り捨てるか、
嫁にやった青柳に荷物をまとめさせ、
そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」
と、カンカンに怒って重成の家を尋ねました。
定:「重成殿、かくかくしかじかのウワサが立っているが、
茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。
なぜその場で斬って捨てなかった。
貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、
ワシが代わりに斬り捨ててくれる。
何があったか、説明せよ。
さもなくば、今日この限り、娘の青柳は連れ帰る!」
重:「お義父様、ご心配をおかけして申し訳ありませぬ。
お言葉を返すわけではありませぬが、
剣の腕なら私にもいささか自信がございます。
けれどお義父様、たかが茶坊主の不始末に城内を
血で穢したとあっては、私もただでは済みますまい。
場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。
いやいや、腹を斬るくらい、
いつでもその覚悟はできておりますが、
仮にも私は、千人の兵を預かる武将にございます。
ひとつしかない命、どうせ死ぬなら、秀頼様のため、
戦場でこの命、散らせとうございます」
と前置きしたうえで、
「父君、『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。
蠅には、金冠の値打ちなどわかりませぬ。
たかが城内の蠅一匹、
打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする」
と、こう申し上げたのです。
これを聞いた大野定長、「うん!なるほど!」と膝を打ちました。
蠅は、クサイものにたかります。
クサイものにたかる蠅には、糞も金冠も区別がつきません。
そのような蠅など、うるさいだけで相手にする価値さえない。
たいそう気を良くした大野定長、帰宅すると、周囲の者に、
「ウチの娘の旦那は、たいしたものじゃ。
『蠅は金冠を選ばず』と申しての、
たかが茶坊主の蠅一匹、
相手にするまでもないものじゃわい」
と婿自慢をはじめました。
日頃から生意気な茶坊主の良寛です。
これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が、大坂城内に広まりました。
挙げ句の果てが、武将や城内の侍たちから、良寛は、
「オイッ!そこな蠅坊主、
いやいや、良寛、お主のことじゃ!。
そういえば、お主の顔が蠅にも見えるの。
蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主!」と、さんざんからかわれる始末です。
ただでさえ、実力がないのに、自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。
「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。
「かくなるうえは、俺様の腕っ節で、
あの生意気な重成殿を、皆の見ている前で、
たたきのめしてやろう」と、機会をうかがいました。
その機会は、すぐにやってきました。
ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。
いかに裸で、背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。
正面切っての戦いを挑むほどの度胸もない。
良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。
なにせ5人力の怪力です。
殴った拳の威力は大きい。
ところが。。。。
「イテテテテ」と後頭部を押さえ込んだ男の声が違う。
重成ではありません。
そこで頭を押さえているのは、なんと天下の豪傑、後藤又兵衛です。
体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。
いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤になって怒ると、脱衣場に大股で歩いて行くと、大刀をスラリと抜き放ち、「いま殴ったのは誰じゃあ!、出て来い!、タタッ斬ってやる!」と、ものすごい剣幕で怒りました。
風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守ります。
そこに残ったのは、洗い場の隅で震えている良寛がひとり。
「さては先ほど、ワシの隣に木村殿がおったが、
そこな良寛!、おぬし、人違えてワシを殴ったな!
何。返事もできぬとな。
ならばいたしかたあるまい。
ワシも武士、斬り捨てだけは勘弁してやろう。
じゃがワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。
拳には拳でお返しするが、
良いか良寛、そこになおれ!」と大声をあげると、拳をグッと握りしめました。
戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。
腕は丸太のように太く、握った拳は、まるで「つけもの石」です。
その大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。
又兵衛にしてみれば、かなり手加減したつもりだけれど、殴られた良寛は、一発で気を失ってしまいます。
又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの湯船の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、浴槽からあがると、倒れている良寛のもとへ行き、
「あわれな奴。せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」と、ひとことつぶやき、「エイッ」とばかり良寛に活(かつ)を入れ、そのまま去って行きました。
さて、気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、
「イテテテて。後藤又兵衛様では相手が悪かった。
次には必ず木村殿を仕留めてやる」
そのとき、そばにいた同僚の茶坊主が言いました。
「良寛殿、
あなたに活を入れて起こしてくださったのは、
その木村重成様ですぞ」
これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりません。
「ただの弱虫と思っていたのに、ワシを助けてくれた? なぜじゃ?」
彼は、そことハタと気がついたのです。
(重成殿は、ワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、
城内という場所柄を考え、
自分にも、重成殿にも火の粉が架からないよう、
アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだ。
そうか。俺は間違っていた。
木村殿の心のわからなかった。ワシが馬鹿だった」
良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫びると、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。
この年、大坂夏の陣のとき、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死して果てました。
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現代社会は宣伝の時代と言われています。
その宣伝に際して、「認知不協和」はとても都合が良く、影響力の強いものです。
誰もがかっこいいと思っている者を、おもいきりショボく扱う。
権威あるものを貶める。
かっこよくて、子供たちの憧れだったウルトラマンをCMに登場させ、失恋させたり、欲しいものを誰かに横取りされたりなどのシーンで、ウルトラマンを徹底的にこき下ろしますと、人々自分の中で、「あのかっこいいウルトラマンが、失恋? えっ?何?どうしたの?」となって、何の話か興味が引かれ、印象が残り、話題を呼ぶわけです。
毎日誠実に努力している人や組織について、あることないことでっちあげて大騒ぎするのも「認知不協和」の応用です。
日本人は誠実ですから、「自分が招いた不徳だ」と内省的になり、「皆様にご心配をおかけして申し訳ない」と謝ります。
すると、「それみたことか。うしろめたいことがあるから、謝ったんだ」などと、筋違いのゴタクを並べた挙げ句、「謝った、認めた!」と大騒ぎするわけです。
戦後にGHQが、日本軍が悪かったとする東京裁判史観に基づく太平洋戦争史などをラジオや書籍で大々的に出版したのも、「認知不協和」の応用です。
いままで立派だと思って尊敬の対象だった軍人さんが、実はとんでもない人たちだった、勝てるどころか、その見込も可能性さえもない無謀な戦いだったのだという宣伝は、まさに「認知不協和」を呼び、拡散されました。
「認知不協和」は、とかくその次元が低ければ低いほど、広がりの大きなものになります。
そしてこれが工作に使われたりもしています。
ネット社会において、個人がこうした「認知不協和」による攻撃を受けると、受ける側はたいへんなショックを受けたりするものです。
けれど、ひとつ申し上げたいのは、
「だからといって、相手とやりあう必要はない」ということです。
上にご紹介した木村重成も、茶坊主とやりあってなどいません。
そもそもこういう手合は、仮にやり込めたとしても、それを素直に認めないどころか、今度は逆に被害者顔をして誹謗中傷してくるのがオチです。
考え方が違うのですから、話しても無駄です。
人生に起きる出来事は、それがどんなに辛いことであったとしても、そこには必ず意味があるものです。
いま辛い思いをしているのだとしたら、それは、自分の魂がより向上するための試練です。
神々が何かを悟らせようとして、起こしてくれている出来事です。
日本も同じです。
戦後行われた戦前戦中の時代へのみにくい中傷は、日本が正気に返るまでの日本人への試練です。
このまま沈没するのか、中傷を跳ね返すだけの立派な日本に生まれ変わるか。
私たちはそのために日本を学んでいます。
実は、木村重成の死後、妊娠していた青柳は、近江の親族に匿われて男児を出産後に出家しています。
そして重成の一周忌を終えると自害しました。20歳でした。
私たちは、そういうご先祖を持つ国の民なのです。
これをお読みの方の中には、ご自身や、あるいはお近い方の中に、イジメや心ない中傷で迷惑を被っていて、つらい思いをされている方がおいでになかもしれません。
けれど、大切なことは、そのような中傷に、ただ「反応」して悩んだり凹んだりすることではありません。
悩んだところで、へこんだところで、相手は変わらないのです。
さりとて、相手に打ち勝つ必要もありません。
そういうことではなくて、自分の人生において何が大事かをしっかりとわきまえて、自分の進もうとする道に邁進することが大事なのだということを、この物語は教えてくれています。
その自分の進もうとする道が、「志」なのです。
そして、
「だからこそ志が大事なのだ」
ということも、この物語は教えてくれています。
それからもうひとつ。
戦前、戦中までは、学校の先生が、授業でこうした話を生徒たちにしてくれたのです。
だから学校が楽しかったのです。
そして、こうした価値観をしっかりと身につけて、志を立て、その志のためにしっかりと勉強に頑張った生徒たちが、社会へと出発して行ったのです。
そうして生まれた社会人と、戦後の日教組教育によって、道徳や修身、歴史を否定されて育った子供たちと、果たしてどちらが社会に役立つ人間となれるのか。
答えは、あまりにも明らかです。
ちなみに、国家や市民というものは、その国家や市民という共同体の一員です。
裏返しに言えば、共同体の一員という自覚があるから、国民であり、市民なのです。
そしてその自覚が、アイデンティティ(自己同一化)です。
従って、アイデンティティを共有しない者は、国民でもなければ市民でもありません。
そして、国民でもなければ市民でもないのなら、その国や都市において、その者は「外人」です。
「外人」は、外国の人という意味ではありません。
人の外、つまり人以外、という意味です。
人でないなら、それは人の皮をかぶったケモノです。
もしかしたら、蝿かもしれません。
ケモノとして一生を生きるのか、真人間として一生を生きるのか。
お天道さまが見ているぞ、というのが、日本人の考え方です。
私は、そういう日本人を取り戻すべきだと思いますが、みなさまはいかがでしょうか。
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