日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代
前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。
中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。
以前このブログで、15世紀にローマ教会が相次いで異教徒を奴隷にする権利を授与する教書を出していることを書いた。
カトリックの司祭である西山俊彦氏の著書『カトリック教会と奴隷貿易』に1454年1月8日に教皇ニコラス5世(在位:1447~1455)が出した『ロマーヌス・ポンティフェックス』が訳出されているので紹介したい。
「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)
文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5世(在位:1438~1481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。
ローマ教皇は「キリストに敵対する者の奴隷化の許可」を記した一方で、「キリスト教徒の奴隷化の禁止」を明記した教書も出したのだそうだが、西山俊彦氏は著書でこれらの教書についてこう解説している。
「…『正義の戦争――正戦――』を行なうに当たっての『正義』の基準が『唯一絶対的真理であるキリスト教』に『味方するか、敵対するか』にあると理解すれば、論理は一貫しています。しかも正戦遂行は義務もともなって、戦争によって生じた捕虜を奴隷とすることは、キリスト教以前から認められてきた『正当な権限』をキリスト教も踏襲しただけということになります。もちろん『正義』にしろ『正当な権限』にしろ、それら原理自体には大いに問題ありと言わねばなりませんが、これが現実だったわけで、当時はイスラム教徒はキリスト教徒を、キリスト教徒はイスラム教徒を奴隷として、何ら不思議とは思われていませんでした。」(同上書 p.78)
キリスト教徒とイスラム教はいずれも一神教で、お互いが相手の宗教を異教として許容することができない関係にあるために、自国の領土だけでなく奉じる宗教とその文化を守り広げていくために、お互いが相手国の領土や富や人民を奪い合う争いを続けてきた。
ところが、大航海時代に、キリスト教国がわが国のような非イスラム教の国家と接するようになっても、イスラム教の国々と同様の異教徒として、わが国の敗残兵や民衆を奴隷として大量に買い込んだのである。
このブログで、日本男性の奴隷を傭兵として買うニーズが高かったことを書いたが、日本女性のニーズも高かった。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 豊臣氏時代.乙篇』に、レオン・パゼーが著した『日本耶蘇教史』の付録に載せた文書が引用されている。
この文章も、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されているが、これを読めば、多くの日本人が絶句するのではないか。
「ポルトガル人の商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、携え去った。而してその奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らを無暗に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に籠居(ろうきょ)せしめ。而してその持ち主らが一たび病に罹(かか)るや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴(こくど:黒人奴隷)も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214
なんと日本人少女が、ポルトガル人に使われていた黒人奴隷に買われていたケースが少なくなかったというのだが、それほど安く日本人が売られていたのである。
にわかにはこうような記録が事実である事を認めたくない人が少なくないと思うのだが、日本側にも奴隷にされた日本人がどのようにして運ばれたかを記録した文書が残されているので読み比べておこう。
豊臣秀吉の祐筆であった大村由己(ゆうこ)が、秀吉の九州平定時に同行して記した『九州御動座記』に、秀吉が『伴天連追放令』を発令した経緯について記した部分がある。この記録も徳富蘇峰の著書に引用されており、『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが可能だ。
「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々の宝物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁盛の計略を廻らして、すでに後戸(ごと:五島)、平戸、長崎などにて、南蛮舟つきごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず、黒船へ買取り、手足に鉄の鎖(くさり)を付け、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、その上牛馬を買い取り、生きながらに皮をはぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。見るを見まねに、その近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候よし、つくづく聞しめし及ばれ、右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/215
日本人奴隷はなんと、鎖に繋がれて、家畜の様に運ばれていたというのである。
ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。
キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。
話を元にもそう。
このように、わが国が西洋社会と接するようになって、多くの社寺仏閣が破壊され、多くの日本人が奴隷にされたのだが、宣教師たちはそれを止めようとした形跡は見当たらない。
今回の記事の最初に『ロマーヌス・ポンティフェックス』を紹介したが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。
イエズス会を創設した一人であるイグナチウス・ロヨラは、「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」と述べたのだそうだが、わが国に来た宣教師が残した文書には、東アジアの侵略事業を如何にして進めるかというテーマで書かれたものをいくつも見つけることができる。
たとえば、イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡にはこう記されている。ここではイエズス会は、キリシタン大名を用いて中国を植民地化することをスペイン国王に提案していたようだ。
「…私の考えでは、この政府事業(明の植民地化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』p.95)
また1588年にアググスチノ会のフライ・フランシスコ・マンリーケがスペイン国王に送った書簡にはこう記されている。
「…もしも陛下が戦争によってシナに攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう、日本に於いて王*達に働きかけるべきである。キリスト教徒の王は4人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らがわが軍を指揮すれば、シナを占領することは容易であろう。なぜなら、日本人の兵隊は非常に勇敢にして大胆、かつ残忍で、シナ人に恐れられているからである。」(同上書P.103)
*王:キリシタン大名の事
このように、宣教師たちはわが国の小西行長や松浦鎮信らキリシタン大名の軍事支援があればシナを征服することは容易だと考えていたのであるが、そのことは宣教師がキリシタン大名に出兵を要請した場合は、彼らが出兵に協力してくれることについて確信があったということであろう。もしキリシタン大名の協力を得てシナがスペインの領土となり、さらに朝鮮半島までスペインの支配が及んだとしたら、スペイン海軍はキリシタン大名とともに江戸幕府と戦うことになったであろう。
他の宗教と共存できない一神教のキリスト教を奉じる西洋諸国が、15世紀以降ローマ教皇の教書を根拠にして武力を背景に異教徒の国々を侵略し、異教徒を拉致して奴隷として売り払い、さらにその文化をも破壊してきた歴史を抜きにして、戦国時代から江戸時代にかけてのわが国の宗教政策や外交政策は語れない。
この時代のわが国に、キリシタン弾圧があったということをことさらに強調する本やテレビ番組などをしばしば見かけるのだが、このような弾圧があった背景に何があったかを一言も説明しないのは、どう考えてもバランスを欠いている。
戦国時代から江戸時代にかけての日本人にとって、キリスト教は、20年ほど前のわが国でテロ事件を繰り返した某宗教集団よりも、はるかに悪質な存在であったことを知るべきはないか。
中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。
以前このブログで、15世紀にローマ教会が相次いで異教徒を奴隷にする権利を授与する教書を出していることを書いた。
カトリックの司祭である西山俊彦氏の著書『カトリック教会と奴隷貿易』に1454年1月8日に教皇ニコラス5世(在位:1447~1455)が出した『ロマーヌス・ポンティフェックス』が訳出されているので紹介したい。
「神の僕の僕である司教ニコラスは、永久に記憶されることを期待して、以下の教書を送る。…
以上に記した凡ゆる要件を熟慮した上で、我等は、前回の書簡によって、アルフォンソ国王に、サラセン人と異教徒、並びに、キリストに敵対するいかなる者をも、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、彼等の王国、公領、公国、主権、支配、動産、不動産を問わず凡ゆる所有物を奪取し、その住民を終身奴隷に貶めるための、完全かつ制約なき権利を授与した。
…ここに列挙した凡ゆる事柄、及び、大陸、港湾、海洋、は、彼等自身の権利として、アルフォンソ国王とその後継者、そしてエンリケ王子に帰属する。それは、未来永劫迄令名高き国王等が、人々の救い、信仰の弘布、仇敵の撲滅、をもって神とみ国と教会に栄光を帰する聖なる大業を一層懸命に遂行するためである。彼等自身の適切な請願に対し、我等と使徒座の一層の支援が約束され、神の恩寵と加護がそれを一層鞏固なものとするであろう。
我が主御降誕の1454年1月8日、ローマ聖ペトロ大聖堂にて、教皇登位第8年」(『カトリック教会と奴隷貿易』p.76-77)
文中の「アルフォンソ」はポルトガル国王であったアルフォンソ5世(在位:1438~1481)だが、この教書の意味することは重大である。ポルトガル国王とその伯父のエンリケ航海王子に対して、異教の国の全ての領土と富を奪い取り、その住民を終身奴隷にする権利をローマ教皇が授与しているのである。
ローマ教皇は「キリストに敵対する者の奴隷化の許可」を記した一方で、「キリスト教徒の奴隷化の禁止」を明記した教書も出したのだそうだが、西山俊彦氏は著書でこれらの教書についてこう解説している。
「…『正義の戦争――正戦――』を行なうに当たっての『正義』の基準が『唯一絶対的真理であるキリスト教』に『味方するか、敵対するか』にあると理解すれば、論理は一貫しています。しかも正戦遂行は義務もともなって、戦争によって生じた捕虜を奴隷とすることは、キリスト教以前から認められてきた『正当な権限』をキリスト教も踏襲しただけということになります。もちろん『正義』にしろ『正当な権限』にしろ、それら原理自体には大いに問題ありと言わねばなりませんが、これが現実だったわけで、当時はイスラム教徒はキリスト教徒を、キリスト教徒はイスラム教徒を奴隷として、何ら不思議とは思われていませんでした。」(同上書 p.78)
キリスト教徒とイスラム教はいずれも一神教で、お互いが相手の宗教を異教として許容することができない関係にあるために、自国の領土だけでなく奉じる宗教とその文化を守り広げていくために、お互いが相手国の領土や富や人民を奪い合う争いを続けてきた。
ところが、大航海時代に、キリスト教国がわが国のような非イスラム教の国家と接するようになっても、イスラム教の国々と同様の異教徒として、わが国の敗残兵や民衆を奴隷として大量に買い込んだのである。
このブログで、日本男性の奴隷を傭兵として買うニーズが高かったことを書いたが、日本女性のニーズも高かった。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 豊臣氏時代.乙篇』に、レオン・パゼーが著した『日本耶蘇教史』の付録に載せた文書が引用されている。
この文章も、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で公開されているが、これを読めば、多くの日本人が絶句するのではないか。
「ポルトガル人の商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、携え去った。而してその奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らを無暗に積み重ね、極めて混濁なる裡(うち)に籠居(ろうきょ)せしめ。而してその持ち主らが一たび病に罹(かか)るや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴(こくど:黒人奴隷)も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口を糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いを逞しうして、あえて憚(はばか)るところなく、そのマカオ帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。予は今ここにポルトガル人らが、異教国におけるその小男、小女を増殖――私生児濫造――したる、放恣、狂蕩の行動と、これがために異教徒をして、呆然たらしめたることを説くを、見合わすべし。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/214
なんと日本人少女が、ポルトガル人に使われていた黒人奴隷に買われていたケースが少なくなかったというのだが、それほど安く日本人が売られていたのである。
にわかにはこうような記録が事実である事を認めたくない人が少なくないと思うのだが、日本側にも奴隷にされた日本人がどのようにして運ばれたかを記録した文書が残されているので読み比べておこう。
豊臣秀吉の祐筆であった大村由己(ゆうこ)が、秀吉の九州平定時に同行して記した『九州御動座記』に、秀吉が『伴天連追放令』を発令した経緯について記した部分がある。この記録も徳富蘇峰の著書に引用されており、『近代デジタルライブラリー』で誰でも読むことが可能だ。
「今度伴天連等能き時分と思候て、種々様々の宝物を山と積(つみ)、いよいよ一宗繁盛の計略を廻らして、すでに後戸(ごと:五島)、平戸、長崎などにて、南蛮舟つきごとに完備して、その国の国主を傾け、諸宗をわが邪法に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず、黒船へ買取り、手足に鉄の鎖(くさり)を付け、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ、その上牛馬を買い取り、生きながらに皮をはぎ、坊主も弟子も手づから食し、親子兄弟も礼儀なく、ただ今世より畜生道の有様、目前之様に相聞候。見るを見まねに、その近所の日本人、いずれもその姿を学び、子を売り親を売り妻女を売り候よし、つくづく聞しめし及ばれ、右之一宗御許容あらば、忽日本外道之法に成る可き事、案の中に候。然らば仏法も王法も、相捨つる可き事を歎思召され、忝も大慈、大悲の御思慮を廻らされて候て、即伴天連の坊主、本朝追払之由仰出候。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960830/215
日本人奴隷はなんと、鎖に繋がれて、家畜の様に運ばれていたというのである。
ルイス・フロイスの1588年の記録によると、薩摩軍が豊後で捕虜にした人々の一部は島原半島に連れて行かれて「時に四十名もが一まとめにされて、売られていた。肥後の住民はこれらのよそ者から免れようと、豊後の婦人や男女の子供たちを、二束三文で売却した。売られた人々の数はおびただしかった。」(「完訳フロイス日本史8」中公文庫p.268)と記されている。
キリシタン大名は日本人奴隷を売った金で、火薬の原料となる硝石を買い込んだようなのだが、その硝石が後に島原の乱で江戸幕府との戦いに使われたという。島原の乱については反乱軍の兵器の方が討伐軍よりもはるかに優位にあり、犠牲者も討伐軍の方が大きく、単純に農民一揆と分類されるような戦いではなかったのだが、この乱については別の機会に書くことにしたい。
話を元にもそう。
このように、わが国が西洋社会と接するようになって、多くの社寺仏閣が破壊され、多くの日本人が奴隷にされたのだが、宣教師たちはそれを止めようとした形跡は見当たらない。
今回の記事の最初に『ロマーヌス・ポンティフェックス』を紹介したが、このようなローマ教皇教書にもとづきポルトガルやスペイン国王には、異教徒の全ての領土と富を奪い取ってその住民を終身奴隷にする権利を授与されており、宣教師は異教徒の国々をキリスト教国に変えるための先兵として送り込まれていて、情報を収集するとともに、後日軍隊を派遣して侵略できる環境を整える使命を帯びていたのである。
イエズス会を創設した一人であるイグナチウス・ロヨラは、「私の意図するところは異教の地を悉く征服することである」と述べたのだそうだが、わが国に来た宣教師が残した文書には、東アジアの侵略事業を如何にして進めるかというテーマで書かれたものをいくつも見つけることができる。
たとえば、イエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルが1584年にスペイン国王へ宛てた書簡にはこう記されている。ここではイエズス会は、キリシタン大名を用いて中国を植民地化することをスペイン国王に提案していたようだ。
「…私の考えでは、この政府事業(明の植民地化)を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』p.95)
また1588年にアググスチノ会のフライ・フランシスコ・マンリーケがスペイン国王に送った書簡にはこう記されている。
「…もしも陛下が戦争によってシナに攻め入り、そこを占領するつもりなら、陛下に味方するよう、日本に於いて王*達に働きかけるべきである。キリスト教徒の王は4人にすぎないが、10万以上の兵が赴くことができ、彼らがわが軍を指揮すれば、シナを占領することは容易であろう。なぜなら、日本人の兵隊は非常に勇敢にして大胆、かつ残忍で、シナ人に恐れられているからである。」(同上書P.103)
*王:キリシタン大名の事
このように、宣教師たちはわが国の小西行長や松浦鎮信らキリシタン大名の軍事支援があればシナを征服することは容易だと考えていたのであるが、そのことは宣教師がキリシタン大名に出兵を要請した場合は、彼らが出兵に協力してくれることについて確信があったということであろう。もしキリシタン大名の協力を得てシナがスペインの領土となり、さらに朝鮮半島までスペインの支配が及んだとしたら、スペイン海軍はキリシタン大名とともに江戸幕府と戦うことになったであろう。
他の宗教と共存できない一神教のキリスト教を奉じる西洋諸国が、15世紀以降ローマ教皇の教書を根拠にして武力を背景に異教徒の国々を侵略し、異教徒を拉致して奴隷として売り払い、さらにその文化をも破壊してきた歴史を抜きにして、戦国時代から江戸時代にかけてのわが国の宗教政策や外交政策は語れない。
この時代のわが国に、キリシタン弾圧があったということをことさらに強調する本やテレビ番組などをしばしば見かけるのだが、このような弾圧があった背景に何があったかを一言も説明しないのは、どう考えてもバランスを欠いている。
戦国時代から江戸時代にかけての日本人にとって、キリスト教は、20年ほど前のわが国でテロ事件を繰り返した某宗教集団よりも、はるかに悪質な存在であったことを知るべきはないか。
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