時間の浪費


日本語をカタカナにして、日本人を民主化しようとする教育使節団の情熱は、書道さえも巻き込んだ。書道は必須科目であったが、教育使節団は、それを時間の空費と考えた。

教育使節団が離日した直後、日米合同のカリキュラム改正委員会は、「筆記は芸術よりも手段であることを強調すべきである」と言明し、書道を選択科目に格下げした。

CIE局長ニュージェントは、1949(昭和24)年に、1946年初期を振り返って

「当時は、我々が〝ブー〟といえば、日本人は、喜んで継続もしたし、中止もした。だから、日米合同などは何等意味がなかった。あれはアメリカ側の決定と受け取ってよい」

と書いている。


日本書道作振会の抵抗


1948年になり、GHQが改革を減らしだした頃、日本書道作振会は文部省に働きかけて、書道を必須科目に復活させようとした。

文部省は、国語学者と書道家からなる委員会を設け、改正が必要なら勧告をするよう命じた。

CIE局内メモによれば、「CIEはこの委員会の委員任命に参加しなかったし、その会合には1つも出席しなかった。直接、間接を問わず、いかなる圧力もかけなかった」。

文部省付きの委員会は、書道を選択科目に据え置きするようにと勧告した。CIEは、これで決着がついたと考えた。


豊道慶中の請願


しかし、1949年4月15日、書道作振会会長の豊道慶中(春海)は、オアの後任CIEのアーサー・ルーミス教育部長に直訴した。

「ヨーロッパ人やアメリカ人がフォークとナイフを使うのは、日本人が箸を使うのと同じように必要不可欠であります。ヨーロッパやアメリカの児童たちにとってペンマンシップ(筆記書法)が必要不可欠であるように、東洋では書道が必要不可欠であるのです」

「柔らかい毛筆でふだん書道の練習を積むことによって、情感の優しい気質を育て、非行を改めさせるのです」

「書道を学ぶ者には犯罪者は殆どおりません」

豊道によれば、書道が「沈着、高尚な精神を育み、幼児期から礼儀正しい態度を取らせるのに役立ちます」。