「それでも私は何も後悔していない」
運命と向き合う女の脆さ、強さ、人間の愛憎の深淵を思い知らされるような作品である。
一言で言えば「トリコロール三部作」的な運命を感じさせる人間ドラマを凝縮して1本で観た感じ。
夫の浮気に嫉妬し正気を失って崩れていく長女、老いた母親の世話にかまけ恋愛に酷く臆病な次女、年上の男に入れあげて愛にすがりつく三女。3人姉妹の三様の愛憎が群像劇として描かれながら、その愛憎の根源である3人の心の傷が、明らかにされていく。
本作で一番素晴しいのがオープニングの托卵とエンディングの家族の対面のシークエンスだ。どちらも偶然が作り出した万華鏡の模様に、それぞれのシーンを組み入れた映像が非常に象徴的で秀逸である。
オープニングで托卵された鳥の巣は、托卵という行為によって本来あるべき姿を変えられてしまう。しかも巣から落ちた雛鳥は偶然にも助けられてしまうのだ。即ち托卵のシークエンスは、不幸にも重なり合った偶然と誤解によって崩壊していく家族の運命を象徴するメタファーとして存在するのである。
そしてエンディングである。
愛を疑い、愛に脅え、愛に溺れる、三様の地獄を収束したラストシーンには息を飲まずにはいられない。
「それでも私は何も後悔していない」母親の言葉は、愛し過ぎたが為に憎悪へと変わる愛の業火を象徴する。作中の「王女メディア」はまさにこの母親とオーバーラップして我々の脳裏を過ぎるのだ。そして本来は無実であった夫を罪に訴えた母親の冷酷とも理不尽とも思えるこの台詞によって、
彼女自身の人生の選択を、或いは娘三姉妹のそれぞれの生き方を頑として肯定し、運命を受け容れて見せるのである。愛に翻弄されながら偶然の出来事に揺さぶられる人の運命、そしてそれに向き合う強さとしたたかさ。人間の愛憎の奥深さと共に、脆くて折れそうに見えて実はとても強い「女」を描いた作品であるようにも感じた次第だ。
偶然ではない、それが人の運命なのだ。
-合理主義者は「運命」に換えて「偶然」という概念を唱える。しかし運命は約束されたものだが、偶然は確率の問題でしかない。偶然からは決して文学は生まれない-
ジャック・ペランの言う台詞にこの作品のテーマが見え隠れしていることに気づくのは困難ではないだろう。
巨匠クシシュトフ・キェシロフスキの遺稿を「
ノー・マンズ・ランド」で国際的に高い評価を得たダニス・タノヴィッチ監督が映画化。キェシロフスキがダンテの『神曲』に想を得て構想した三部作「天国」「地獄」「煉獄」のうちの「地獄」編に当たる作品とのことである。
「ニュー・シネマ・パラダイス」「
コーラス」の名優ジャック・ペラン、「
髪結いの亭主」等パトリス・ルコント作品の常連ジャン・ロシュフォール、「
アンダーグラウンド」のミキ・マノイロヴィッチ等名だたる男優を従え、それを飲み込むかのようにエマニュエル・ベアール、マリー・ジラン、キャロル・ブーケ、カリン・ヴィアールという女優陣のキャラクターが際立っている。
但しドラマとしての見せ場というものを考えた時にどこか物足らなさを感じる作品であったことも追記しておきたい。
勿論ダニス・タノヴィッチが実に繊細に注意深くこの作品を作り上げていることは容易に見て取れる。螺旋階段や万華鏡を用いた象徴的な映像、また変化に富んだカメラアングルやサスペンスタッチの凝った演出等、見所も実に多い。そして3つの物語を収束して運命と愛の形を描いた「トリコロール」によく似た作品のテーマ性と構図や、完全に「トリコロール」と共通する“ゴミを捨てに行く老婆のシークエンス”等には、キェシロフスキへのトリビュートと思える要素が感じられる。
しかし「トリコロール」を青白赤と観た時の、繊細でありつつ大胆な、あの解放と再生に向う大いなるエモーションをここには見い出すことができない。言い換えれば映画の巧妙さとドラマ性の合致点を見い出せなかったというべきか。
多くの素晴しい要素を持つ作品ではあるが、総ては父親への誤解がトラウマとなっていたことに起因し人生の運命と偶然を紐解くという多少単純な構図を持つ脚本ゆえに、もしこの遺稿をキェシロフスキが撮っていたならばどうなっていただろう、という思いを最後まで払拭することができなかった。
尚、「天国」編はトム・ティクヴァ監督が「
ヘヴン」として映画化しているそうだ。機会があればその作品もいつか観てみたい。
恋愛映画を最大の弱点とするこのブログにとって、奥深いキェシロフスキの遺稿に対峙するにはまだまだ人生経験が不足だ、そんなことも改めて感じる。 OTL
しかしキャロル・ブーケはド迫力で全部かっさらっていったなぁw