本能寺の変の要因文書発見か
織田信長が明智光秀に討たれた1582年の「本能寺の変」の直前、四国の統治をめぐって四国の戦国大名、長宗我部元親が光秀の重臣、斎藤利三にあてた書状などが見つかりました。
今回見つかった史料の一部は、ことし10月11日から高知県立歴史民俗資料館で公開される予定です。
岡山市北区にある林原美術館は岡山県立博物館とともに所蔵する明智光秀の重臣、斎藤利三の親戚関係にあった石谷家に関する古文書群を調査していましたが、その中に四国の戦国大名、長宗我部元親と利三がやりとりをしていた書状などが見つかりました。
このうち、本能寺の変の5か月前に斎藤利三が長宗我部家の自分の親戚にあてた書状では四国の一部の領有しか認めないとする信長の提示を拒否した元親に対して考え直してもらうよう利三が働きかけを依頼しています。
また、元親から利三にあてた本能寺の変の10日ほど前の書状では、すでに四国への出兵を決めていた信長に対して恭順の意を示していて、元親がこのいくさを避けようとしたことがうかがえます。
本能寺の変をめぐっては光秀が元親と親戚関係にある利三を通して、元親に四国全体を領有させようと交渉したものの、信長が方針を変更して最終的には元親を討とうとしたため、反旗を翻したとする「四国説」があります。
今回「本能寺の変」直前の四国の政策をめぐる光秀の重臣と長宗我部家とのやりとりが書状として見つかったことで四国説を支える有力な根拠となるものとみられます。
岡山県立博物館の内池英樹主幹は「四国説の弱点は後世に書かれた二次史料に基づいていたことだったが、それを裏付ける有力な一次史料が初めて見つかったという意味で非常に貴重だ」と話しています。
今回見つかった史料の一部は、ことし10月11日から高知県立歴史民俗資料館で公開される予定です。
06月24日 20時03分
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