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写真|約1万3千メートル上空から見た東京都心の明かり=2014年3月17日夜、朝日新聞社機から、矢木隆晴撮影
朝日新聞は、「吉田調書」に続き、2011年3月の福島原発事故時に官房副長官として住民避難政策の責任者を務めた福山哲郎参院議員が政府事故調査・検証委員会の調べに答えた「調書」を入手した。事故時の住民避難やその後の避難区域設定といった政治的決断の過程を詳しく語っている。今なお13万人もの住民に避難生活を強いる福島原発事故の当初の政治判断の裏側を知ることができる重要な資料だ。
「調書」は2編で構成されている。総文字数はおよそ13万字。A4判で100ページあまりで、吉田調書のおよそ4分の1の分量だ。調べは2012年2月に、2回に分けておこなわれた。
住民避難について政府事故調は、3大チームの一つ「被害拡大防止対策等検証チーム」が検証にあたった。最終報告書の本編には、住民避難について16ページの記述があり、この調書の内容もそこに反映された形跡がある。
ただ、私たちには、自分と、自分とは違う運命をたどることになった他者との間に引かれた線のわけを、おおもとのところから知る権利がある。なぜ自分はあの原発事故で故郷、経済基盤、社会的つながりの一切合切を失うことになったのか、あるいは、なぜ自分はあの原発事故を経ても住み慣れた土地を離れずに済んだのか、である。
事故発生時の避難指示は、福島第一原発から20キロメートル圏内で、30キロ圏内ではなかった。それが、事故発生から1カ月も経って、20キロ圏の外であっても立ち退かなければならない「計画的避難区域」が福島第一原発の北西方向にだけ設定された。なぜこのようなことになったのか。この線引きは、誰が、何を根拠に、いつ、どのような経緯で決めたのか。
朝日新聞の「吉田調書」報道をきっかけに、これらの調書については今後、一部開示となる可能性があるが、調書公開の有用性を一人でも多くの人に感じてもらうため、重要な論点を整理して、先行して示す。
福島原発事故の発生時、危機管理担当の官房副長官だった福山哲郎氏が、政府事故調査・検証委員会の聴き取りに答えた「福山調書」を朝日新聞は入手した。
福山氏は、刻一刻と悪化する原発の状況に追われるように、住民の避難区域を決めていった当時の首相官邸の様子、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)をどうして事故当初から使わなかったのか、計画的避難区域の決め方について詳しく話をしていた。
政府事故調の最終報告書は、福山調書の内容を一部勘案した痕跡がある。しかし、住民避難について国は、地方自治体任せで一歩引いた状態で、事故調の報告書の避難に関わる部分が国の新たな原子力行政に生かされるかは疑わしい。関係自治体はそれぞれ独力で、今回明らかになった福山調書の内容を吟味して、本当にこんなことで住民を原発事故からうまく避難させることができるのか、根本のところから考える必要がある。(以下敬称略)
写真|公開されたオフサイトセンター内には、福島第一原発を中心にした巨大な地図が置かれ、避難についての記録が残っていた=2012年3月2日、福島県大熊町、相場郁朗撮影
東日本大震災発生当日の2011年3月11日午後9時23分、政府は菅直人首相名で福島第一原発から半径3キロメートル圏内に避難を指示した。このころ福島第一原発所長の吉田昌郎は、1号機については非常用の冷却装置が働き冷却が続いていると判断していた。心配していたのは2号機の方で、午後9時2分、監督官庁である原子力安全・保安院に原子炉の水位が不明で注水状況も確認できないと報告していた。
——— 3km、なぜ3にしたかという部分は覚えてらっしゃいますか。
福山「今申し上げたとおりです。まずもともとが2kmになっていませんか」
——— 2kmは福島が出しているのですね。
福山「それを私たちは知らないのですけれども、防災マニュアルはなんて言われていましたか。3kmでしたか」
——— マニュアル上、何kmで先に出せということは書いていないのです。
福山「3kmぐらいまでは準備ができています、みたいなのが保安院からあって、それで結果としていっぺんに出したら近くの人が簡単に言うと渋滞とかになると出遅れると。まず近くの人を出そうと。そんなに広くなくていいという話は班目さんからもあったので、そこで避難の指示は3kmにしたと思います」
——— 近い人を最初に逃がさなければいけないのでというような議論を誰がされたかというところまでは記憶はないですか。
福山「実は当時の会合の様子というのは、相当あまり役職とか関係ありません。みんなが簡単に言うとこれはどうなんだ、あれはどうなんだという中で収れんしていった実態のところなので、具体的に誰が言ったかというのはわかりませんが、現実問題としては近い人からやらないと、遠い人は逆に言うと逃げられる可能性は高いので、近い人からというのを優先したような気がします」
——— この3kmの避難を決めた段階で、班目さん辺りなのですけれども、ベントをするにしても管理された下でベントをするのであれば3kmで十分なんだというような発言をした。それはお聞きになったことはありますか。
福山「言っています」
——— それは班目さんですか。
福山「班目さんです」
——— というのは、班目さんはこの3kmを決めたときには私はいなかったのではないかという話。
福山「いなかったのか、いたけれども、どこかに行っていたのか、それはわかりません。だけれども、少なくとも寺坂さんや班目さんには確認しているはずです」
※班目さん…班目春樹原子力安全委員会委員長、寺坂さん…寺坂信昭原子力安全・保安院長
写真|「警戒区域」への立ち入り禁止に備え、道路には看板やバリケードの設置が進んだ=2011年4月21日、福島県葛尾村葛尾、小宮路勝撮影
福島第一原発の周辺住民に最初に避難を指示したのは、福島県知事の佐藤雄平だった。3月11日午後8時50分、半径2キロメートル圏内の住民に避難を指示していた。国の指示は県より33分後だった。国からの指示について福山は、保安院から避難指示を出すよう求めがあり、原子力安全委員会委員長の班目春樹の「そんなに広くなくていい」との助言を踏まえ3キロとしたことと、「これはどうなんだ、あれはどうなんだ」という中で決まっていった会合の様子を淡々と話した。
2004/09/23 · 実際の商品とは異なる場合がございます。 モスクワ出身のピアニスト、ニコライ・ルガンスキーの来日記念アルバム。ラフマニノフの変奏曲を