これが日本人の武士道精神「日本人よ、誇りを忘れるな」 日本海軍駆逐艦『雷』艦長・工藤俊作の物語
世界に誇れる素晴らしい日本人がかつて存在した……。あなたは、工藤俊作という日本人を知っていますか?
大東亜戦争開戦翌年の昭和17年3月2日午後2時頃、ジャワ海の制海権争奪に敗れた米英豪連合軍艦隊の2隻の英海軍艦艇がインド洋への脱出を試みて、ジャワ海北西海域において日本艦隊に相次いで撃沈された。両艦の乗員合計約450人は炎上沈没する艦から脱出し漂流、その後20時間近く経過した翌3日午前10時頃、日本海軍の駆逐艦『雷』が彼らを発見した。
■英駆逐艦「エンカウンター」
■英巡洋艦「エグゼター」
『雷』の乗組員は全部で220名、イギリス人漂流者はその倍以上450名もいた。さらにこの海域は敵の潜水艦の跳梁が激しく、艦を停止させること自体が自殺行為に等しかった。
イギリス海軍400名余を確認した『雷』の工藤少佐(当時)は敵潜水艦の有無を再三に渡って確認させ、その上で『敵兵を救助する』と号令。マストに『救難活動中』を示す国際信号旗を掲げた。工藤に対し、「艦長はいったい何を考えているのだ! 戦争中だぞ!」と批判の声も挙がった。英米による石油禁輸措置によって石油の乏しい日本にとって、発進・停止を繰り返す救助活動は、その後の戦闘を不可能にすることに繋がったのだ。
そうして救助が始まったが、イギリス海軍将兵の多くは艦から降ろした縄はしごを自力で昇れないほど消耗していた。工藤艦長は彼らの体力が限界に達していることに気づき、ほとんどすべての乗組員を救助活動に当たらせた。当初は軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していたが、「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」という極めて異例の命令を発したのだ!
さらに周辺海域を探査、漂流者をすべて救出。救助した英兵を貴重な真水で洗い、衣服まで提供して工藤艦長はこうスピーチした。「貴官たちは勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである」……と。そもそも英国海軍の規定において、危険海域における溺者救助活動は『たとえ友軍であっても義務ではない』としている。 それが敵兵である自分たちを戦域での危険を顧みず救助し、衣・食を与え、敵国の病院船に引き渡しまでしたのだから、救助された英兵たちは大感激したのだという。
■終戦から長い年月が流れた平成8年、サムエル・フォール卿(元英海軍士官)が自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を出版
序文には、「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた大日本帝国海軍中佐・工藤俊作に捧げます」 と記されている。 「自分が死ぬ前にどうしても一言お礼を言いたかった。一日として彼の事を忘れた事はありません」と来日したフォールさんによって、このひとりの日本人・工藤俊作艦長の話は、日本人の知るところとなった。
工藤艦長は戦後になってからも海軍のクラス会には出席しようとしなかったという。あの救出劇ののち、工藤は別の艦の艦長となったが、『雷』は撃沈されて乗組員全員が死亡してしまっていたのだ。晩年の工藤の1日は、毎朝死んでいったクラスや部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。そうして、昭和54年1月12日、工藤艦長は77歳の生涯を静かに閉じた。
工藤艦長の甥・七郎兵衛さんはフォールさんがもたらしたこの話を聞き、「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙したのだそう。工藤艦長は家族にも、この事実を語ることはなかったのだという。日本海軍のサイレント・ネイビーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである……。
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この記事を読んで、あなたはどんなふうに感じましたか? わたしは、工藤艦長の日本人としての誇りや矜持に胸が熱くなる思いがしました。同時に、現代では日本人的な「武士道」の魂が失われていることを、考えずにはいられません。あなたも大切な人とこの話をシェアして、今一度「日本人の誇り」について考える機会にしていただければと思います。
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