高倉健と山口組のディープな関係 健さんが田岡組長に奨学金提供を直談判!
2014.11.28. リテラ
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“最後の銀幕スター”高倉健が逝去して以来、芸能マスコミや週刊誌は追悼特集で埋めつくされている。そんな中、「アサヒ芸能」(徳間書店)12月4日号が いかにも「アサ芸」らしい特集記事を掲載した。
題して「高倉健と山口組」。タイトルの横に山口組・田岡一雄三代目組長とのツーショットが掲載されている、衝撃的な記事だ。
確かに、近年はすっかりそういうイメージはなくなってしまった高倉健だが、もともとは東映の任侠映画のスター。当時は私生活でも普通に暴力団との交友をもっており、とりわけ田岡三代目との関係は有名だった。「アサ芸」の記事はその部分にスポットをあてたもので、こんな書き出しから始まる。
「高倉健と山口組──。日本を代表する俳優と日本最大のヤクザ組織の縁が始まったのは、1950年代後半にまで遡る」
高倉が東映に入社したのは55年。当時、高倉は美空ひばり主演の相手役が多かったが、ひばりの後見人は、言わずと知れた田岡一雄・山口組三代目組長、その人だった。また高倉は59年に江利チエミと結婚するが、江利はひばりの親友でもある。つまり、女性を仲立ちにするかたちで関係が始まったようで、「アサ芸」によれば、「(高倉の)結婚式には田岡三代目組長も列席した」という。
だが、その関係が「蜜月」になっていくのは、73年に『山口組三代目』で田岡組長役を高倉が演じたことだった。この映画は田岡三代目の自伝をもとにその半生を描いたものだが、ある日の撮影後、高倉は田岡三代目を訪ねていったという。
「心臓病で入退院を繰り返していた田岡三代目がちょうど在宅しており、親分の部屋で2人きりで、30分ほどでしたが、お互いをねぎらい合ったんです」
当時、雑誌のインタビューで高倉は田岡三代目について惚れ込み、共感さえ感じたことを自ら語ってもいる。
「三代目は人間的に興味ありますよ。どん底から叩き上げて、文字通り死にもの狂いでやってきた。ぼくはあの人が“他人より一杯メシを食いたかった”といっている気持ちがよくわかるんですよ」(実業之日本社「週刊小説」73年7月20日号)
そして、映画にかける強い意気込みについては、「作品の人物にホレこむという映画は久しぶりですから」と答えている。
同映画は空前のヒットとなり、田岡三代目は高倉に感謝する意味で、京都の料亭に招いたこともあったらしい。こうした交友の中で、同作の監督である山下耕作は、高倉が田岡に仰天の計画をもちかけていたことを「アサ芸」に証言している。
「高倉は『親分と同じように、頭がよくても貧しいために学校に行けない子はたくさんいる。そんな子のために山口組で育英資金を出してはどうですか』と話しかけた。すると、田岡三代目は『それはええ考えやな。さっそく検討してみよう』と即答したという」
しかも、高倉と山口組との関係はこれだけではなかった。「アサ芸」にはもうひとり、高倉と親しかったX氏という匿名の山口組最高幹部が登場する。
X氏は組を引退し、隠棲中だというが、当時は最高幹部の一人で相当な大物だったようだ。そのX氏と高倉の出会いは「(63年)当時、山口組直参として他団体ににらみを利かせていたX氏の新居祝いに、任侠スターとして売り出す以前の高倉がひょっこり顔を出した」のがきっかけだというが、かなりディープなものだったようだ。X氏は、高倉に女をあてがったときの話としてこんなエピソードを披露している。
「ロケが終わって、ホテルに帰った健さんの部屋から悲鳴が聞こえてくるんですよ。それも『そんなことやめてくれ』って、扉をドンドン叩いてね。いつもタレントにするように女性をあてがっただけなんですが、清癖な健さんはまったく受け付けなかった。(略)ドアを破らんばかりの勢いで出てきましたよ」
また、テレビCMの出演依頼に頑としてクビを縦にふらなかった高倉が、X氏の説得に折れて出演を受け入れた話や、「務め」に行くことになった組の若い衆のためにギャラをX氏に差し出したというエピソードも語られている。
たしかに、当時は、暴力団抜きには興行が出来なかった時代で、ヤクザと芸能人の交友はかなりおおっぴらに行われていた。だが、「アサ芸」の記事が事実なら、その中でも健さんは相当に暴力団とズブズブの芸能人だったといえるだろう。
しかし、その健さんも、70年代の後半に入ってからは一転して、暴力団と距離をおくようになった。周知のように、高倉健は70年代に入ってから、ヤクザもの以外の映画に出演したいという希望をもちはじめ、76年には「このまま東映にいるとヤクザ役しか出来なくなる」という理由で独立したといわれる。だが、この背景には、プライベートでもヤクザと距離をおきたいという気持ちもあったのではないかといわれている。ベテラン芸能ジャーナリストがこう語る。
「健さんの本質は読書や映画が好きなインテリで、もともとヤクザのような単純な『男の世界』にはあまりなじまないところがあった。任侠映画のスターということで、暴力団関係者との交友が増えていくことにも負担を感じていたんじゃないでしょうか。しかも、当時、東映のヤクザ映画が任侠シリーズから実録シリーズに移行して、ますます暴力団との関係が濃密になってきた。それに耐えられなくなって、独立へとさらに拍車がかかったような気がする。実際、80年代くらいからは、引退した信頼できる人をのぞいて、ほとんどの暴力団関係者とは縁をきっているはずです」
実際、後年の高倉の暴力団嫌いは有名で、高倉の死後、11月22日にビートたけしが『新・情報7daysニュースキャスター』(TBS系)で明かしたとろによると、高倉は知り合いの暴力団組員に「そういう商売はやめなさい」と言って暴力団をやめさせ、付き人にしたということもあったという。
同世代の俳優や歌手の多くが今もずるずると暴力団との関係を引きずり続けている中で、ここまできっぱりと関係を断ち切ったというのは、かなり希有な例ではないだろうか。
そういう意味でいうと、「アサ芸」の記事は、過去の黒い歴史だけでなく、高倉健という俳優の“変わろうとする意志の力”を改めて証明したといえるかもしれない。
(時田章弘)
takakuraken_141128.jpgVHS『山口組三代目』(東映ビデオ)より
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