一つ目は、いつも私を驚かせます。宗教や文化的背景に関係なく、許しを請うという願望がありました。それを罪と呼ぶとしても、ただ単純に後悔と呼ぶとしても、罪の意識というものは世界共通です。
私は一度、心臓発作をおこしているお年寄りの男性の対処をしたことがあります。今にも起こる心停止に備え私が準備をしているとき、私は彼に差し迫っている死を伝えました。彼は私の声のトーン、ボディ・ランゲージからすでに、それを悟っていました。
これから起こることに備え、私が彼の胸に除細動器のパッドを置いたとき、彼は私の目を見て言いました。「自分の時間に自分勝手にならず、子どもたちや孫たちともったたくさんの時間を過ごせばよかった」。
差し迫る死に直面し、彼が欲したものは許しだったのです。
二つ目のパターンは、記憶への願望です。それが私の記憶の中でも、彼らの愛した人の記憶の中であったとしても、彼らは生き続けるのだと感じたいのです。愛した人、私、私の同僚、周りにいる誰であっても、その人の心の中、頭の中では永遠なのだと感じたいのです。数えられないほどの患者が、私の目を見て言いました。「私を覚えていてくれる?」。
最後のパターンは、いつも私の魂に触れるものです。死にゆく人は、自分の人生に意味があったのだと知りたいのです。彼らは、自分の人生を意味のないことのために無駄に費やしはしなかった、ということを知りたいのです。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。