日本人は普段から家族に対して感謝の言葉をかけることや、愛情を表現することが非常に苦手です。心では思っていましても「愛している」などとは「恥ずかしくて言えるか~!」という人が多いものです。
しかし、本当に自分が死に面した時、最期の病床から出る言葉は、
「すまなかった」
「よく頑張ってくれた」
「申し訳なかった」
「ありがとう」
・・・・という家族への感謝の言葉ばかりでした。
消えかかるような小さな声で、自分が元気な時は言えなかったような言葉が、誰もが自然と素直に出ていました。
元気な時は誰でも自分の身勝手が有り、家族と喧嘩もし、口も聞かない時期が有ったかも知れません。
しかし、だからこそ、それが有ったからこそ、最期の時は走馬灯のように過去のすべてを思い出しながら、「謝罪」と「感謝」の言葉だけが自然と口をついて出るのでしょう。
人生の最期になって初めて、コノ世の善悪のすべてが思い出となり、どんな出来事にも感謝が出来る心の状態が最高の死の迎え方です。
元気な時は、他人の悪事には悪という「点」だけを見て、それだけに拘り追求して怒り、悪の何に感謝をするのだ?と反感を持つものです。
しかし、自分が死に面した時、悪事にも背景が「有った」ことを理解し、「慈悲の視点」というものが誰にも観え出すのです。するとやはり、
「誰も悪くはなかった」
「コノ世のすべては感謝するべきことだらけだった」
ということが真から本当に分かるのです。
コノ世を去る間際になって初めて分かるのが人間の皮肉なところです。
自分が元気な時に、心の真から「慈悲の視点」というものが理解出来ていたならば、その人の運命は変わり、人生が大きく変わったことでしょう。
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