私は人文科学科だったので、この問題は大学在学中に考えた問題の一つでした。科学はすでに定まった方法の上でそれを用いて分析・研究する。その方法については前提にされていて、そこが問題になることはない。一方、人文科学は、科学も含めて、物事を理解するための方法を問題にし、研究対象にする。実益にはならないけれども、根源的、本質的に人間のあり方を考察するものなんだろうと考えていました。
当時心にとまった話に、空襲が町を襲い始めている1944年の日本において、ヘブライ語修得に邁進している学生のことがあります。死ぬかもしれないその時に、旧約聖書を読むために学んでいる。この話を聞いて、学者になる人っていうのはこういう人なんだろうと思いました。およそ自分にはない資質だなあとも…。一方その学生は社会から隔絶して、みんなが殺されていても、戦争反対もしないんだろうなとも思いました。でも、そういう存在が許されていいし、許されるべきだろうと考えていました。
この文章にある「真実という鏡の前で自らの精神のくもりに気づくという知的・心的経験」はどうだったか。真実は一つなのかっていうことが問題になっている時代だったから、自分が学生時代に経験したことがこれに当てはまるのかはわかりません。けれど、自分が見ていること、考えていることが、違う方向から光が当たって、ガラガラと崩れ、別のものに作り変えられていくことが起きることはありました。教えられてきたことは絶対ではないのだということを経験していました。
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