夫含む230万の死、
その対価に9条ある 辰巳芳子さん
特別編集委員・山中季広
2015年9月18日朝日
http://digital.asahi.com/…/articles/ASH9B3WJ7H9BUPQJ005.html
料理研究家の辰巳芳子さん(90)は、病床へ食の喜びを届ける「いのちのスープ」運動で知られる。料理と執筆中心の静かな日常ながら、日本の将来を考えると不安になる。思い出すのは結婚わずか20日で出征した夫のこと。心配なのは日本の食卓の先行き。「いのち」の尊さを原点に、思索は戦争と食の間を縦横に行き来した。
――安全保障を一変させる法案の審議が大詰めです。
「恐ろしい気がします。これで日本はやすやすと米軍を手伝う国になってしまう。米国の戦争をちょこっと手伝えば、中国を黙らせておけると考えたのでしょうか。憲法の解釈を内閣ごとに勝手に変えてよいことになってしまった。人間いざという局面に立つと、正しい解釈など困難です。政治家は自衛隊を戦場へ送るだけ。隊員のいのちまでは守ってくれません」
――米国と中国、日本の立場をどう見ていますか。
「米国とはどういう関係でいるのがよいか、日本を指導する人々は考え尽くしていない。どうしたら日本は本心で中国と相互いに生きていけるのか、私自身もいま、ずっと考え続けています」
――日本人は考え抜く力が弱いのでしょうか。
「どうしても稲作型の思考をします。米作りにはぜんぶで135の手間がかかる。田を通じて日本人は代々しんぼう強さを身につけ自然と交流し、仕事力を磨いてきました。すばらしいことです」
「半面、西欧人のような論理的な交渉を迫られる場面は稲作には少ない。たとえば外交ごとをみるとドイツの人は理屈に強い。英国人は駆け引きにたけている。中国は欲で押す。でも日本の稲作的生き方の強みは発揮できない。日本の外交は成果が出せません」
――自民が政権を取り戻した2012年の総選挙の後、主宰する「良い食材を伝える会」の会報に「選挙結果に落胆した」と書かれました。なぜですか。
「危険な方向に日本が向かうと心配したからです。最近も、武器輸出が本格化したという報道を見た。私は軍需工場で働いたことがあります。夏は火薬を詰める袋を縫った。冬は冷たい手投げ弾を手で磨いた。武器や弾薬は売れば確実にもうかる。でも日本が武器輸出国に戻って本当に大丈夫ですか。朝日新聞を読んでも、輸出に反対する倫理的な意見が載っていない。私には理解できません」
――安倍晋三首相は引っくるめて「積極的平和主義」と呼びます。
「ノルウェーから来日した平和学者がはっきり誤用だと言いました。本来は、貧困や差別のない状態にまで平和を深めることだと。あの通りですよ。首相をはじめ政治をつかさどる人々はどれほどいのちの重みを考えたことがあるのでしょうか。前の戦争でいのちを守ることがどれだけ大変か日本は学んだばかりなのに」
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――その戦争でご主人は命を落とされました。
「フィリピン戦線でした。彼と同じ船で送られたのは3800人、うち帰れたのは8人でした。制海権も制空権もなかった。親しかった方が彼の家まで来て、最期を報告してくれました」
「私の結婚生活は20日で終わりました。結納が届いた直後に赤紙が来て。父が先方を訪ね、『結婚は兵役の済んだ後でいいのでは』と申し出た。彼は『わかりました』と言って大粒の涙をこぼしました。そう聞いて私は決心しました。この人と結婚しようと」
――なぜですか。
「これから戦地で死ぬかもしれない男性を悲しませちゃいけないじゃないですか。でもね、戦死の連絡が来て私は悩みました。父の言う通りにすればよかったのかと。何年も何十年も考えました」
――答えは出ましたか。
「75歳になって初めてフィリピンを訪ねました。セブ島で船に乗ると、夕方の空が一面、真っ赤に染まりました。水に触れてハッとしました。結婚をあの人は喜んでくれたんだ、だからずっと私のことを守ってくれたんだと。50年考えて答えにたどり着きました」
「その旅で、激戦の島コレヒドールも訪ねました。米軍施設跡には何と秘密のプールがあった。5面のテニスコートが覆う地下に。衝撃でした。こんな余力が米国にはあったのかと。日本兵は草の露でいのちをつないだのです。水の乏しい地域で相対しながら相手はプール、こちらは草の露。兵隊のいのちをどう守るか日米でここまで思想が違った。集団的自衛権が戦地で実行されてもこの違いは変わりません。何らかの形でプールと露の差がついて回ります」
――靖国へ行かれたことは。
「ございません。靖国は国が英霊をまつるところ。死にたくないのに国に戦地へ送られ、死んでいった若者は、靖国には顔をそむけた。戦争指導者は靖国にいるかもしれませんが、無念の戦死者たち(の魂)は靖国へは行きません。あの人はここ(自宅)にいます」
――戦中はご家族も「名誉の戦死」と受け止めましたか。
「まさか。出征した昭和19年の6月、あの人ははっきりと私に言いました。『僕は死にたくない』って。他の兵隊さんたちも本心は同じ。死んでもいいと信じていた人なんてだれもいません」
「戦時統計を調べました。戦場に赴いた日本の若者のうち、戦闘でいのちを落としたのは3割。残り7割はなぜ亡くなったとお思いですか? 餓死なんです。軍の愚かな作戦で、失わなくてもいいいのちを失った。生き続けたいと思って死んでいった人々のいのちと引き換えに作られたのが憲法9条です。彼を含む230万人のいのちの対価です。折々のむずかしい問題を考える時、私は憲法を足場にしてきました」
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――その9条の意味を現政権は解釈だけで百八十度変えました。
「私の先祖は加賀・前田藩の祐筆(ゆうひつ)(藩の記録や書記の役)でした。むかし殿様の最大の任務は領民のいのちを守ること、飢えさせないこと。なのにいまの政治家は国民のいのちや食を守ることを真剣に考えていない。しっかりした生命観をお持ちじゃない。だから日本はおかしくなりました。もう底が抜けてしまいました」
――底が抜けたとは?
「10年先には大変なことになります。気象が変動し、干ばつや熱波による米国や南米、豪州の凶作がじかに日本の食卓に及ぶ時代。日本も南太平洋の気候になってきた。むかしは真夏でもそうそう32度は超えなかった。気候激変に応じた食の確保策をだれも考えていない。風土にあった食材を料理して食べていないから、日本の男はナヨナヨしてきた。若い男性のえりあしなんてスーッとしていて、見るからに頼りない」
「しかも農業者が減りすぎている。いま日本の農業を担う人々は平均65歳。10年先にはもう働けない。そして農業高校を出ても農業で食べていけない国になりつつある。30%台の食料自給率は異常です。サッチャー英首相は奮闘して(カロリーベースで)70%へ戻した。日本の政治家はだれも危機感をお持ちじゃない。特に穀物が危機的。無策が続けば、10年後に日本は食で行き詰まります」
――食品を含む輸出入のルールを変える環太平洋経済連携協定(TPP)には反対ですか。
「食の根幹について外国と交渉する以上は、逆手に取るくらいの姿勢で臨んでほしい。逆手に取って日本のおいしい農産品や魚介類をちゃんと守り、輸出を伸ばすところまで持っていけるはずです」
「私はずっと各地の農産品を守る運動を続けてきた。動物性たんぱくに依拠しすぎた生活はあやうい。牛肉のBSE問題、鶏肉の鳥インフルエンザが深刻になる前から、大豆100粒運動というキャンペーンを始めました。小学生が1人100粒をまき、育て、収穫する。増産のためじゃない。大豆なら将来の日本を助けてくれるから。運動10年、小学生3万人が大豆に親しんでくれた。国の立て直しには、こういう具体的で無私無欲の農業施策が欠かせません」
――穀物が日本を救うと。
「魚介類も心配です。日本人は農耕民族であり、海洋民族でもある。海の幸なしでは生きていけない。福島のアイナメが(規制で)食べられなくなって悲しい。福島の事故の何年も前から心配していた。青森県の六ケ所村で核燃料の再処理が行き詰まったと知ってからですね。もし核物質が海や土を汚染したら、見た目は普通の食品でも住民はどれひとつとして食べられなくなると。実際に大きな事故を起こした日本政府が原発を外国に輸出するなんて。買う方もどうかしていないでしょうか」
◇
1924年生まれ。日本の風土にあった家庭料理を提唱。その日常と思想を描いた映画「天のしずく」が2012年に公開された。
■取材を終えて
すぐれた食材を全国に紹介し、風土にあった食べ方を提案する――。広く知られた料理家だが、話してその自在な思考に引きこまれた。コメを通じて外交を論じ、アイナメを惜しんで核問題にいたる。「愛とは何か」「人はなぜ食べるのか」。身に降りかかった難題はとことん考え続けるのが身上。「いまの人は政治家も学者も記者も考え抜くことをしません」(特別編集委員・山中季広)
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