一匹狼で生きる表現者達にとっては悪名は無名に勝るといわれています。
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東京電力福島第1原発で、宇宙線を利用して原子炉建屋全体をエックス線写真のように外から「透視」し、溶けた核燃料(燃料デブリ)の分布を探る調査が12日に始まる。これまで原子炉圧力容器の内部を調べる手段はなかった。圧力容器内に残る核燃料の量などを把握し、難航が予想される燃料デブリ取り出し策の検討に役立てる方針だ。
宇宙から降り注ぐ宇宙線は、地球の大気に当たると素粒子「ミュー粒子」を生じる。ミュー粒子は物質を通り抜ける能力が高く、コンクリートや鉄なども透過する。一方、核燃料のように密度の高い物質はわずかしか通り抜けられない。このため、建屋の外に置いた検出器で建屋を通ってきたミュー粒子を観察すれば、核燃料がある部分は黒い影のように映るという。この方法は火山のマグマの調査などにも利用されている。
検出器は、10日までに1号機の北と北西の2カ所に設置された。東電の試算によると、1号機は大半の燃料が圧力容器から原子炉格納容器の底に溶け落ちていると推定される。格納容器の底は地下にあるため、地上の検出器では透視できないが、圧力容器内にどの程度の燃料が残っているかを確認する。検出器を開発した高エネルギー加速器研究機構(茨城県つくば市)によると、30~50センチ程度の大きさの燃料デブリまで位置を把握できるという。
東電などは約1カ月測定し、3月末に結果をまとめる。同機構の高崎史彦名誉教授は「燃料が圧力容器にないという仮説が実証されるだけでも意義は大きい」と話す。東電も「燃料デブリの位置などが分かれば、取り出しの手順や方法がある程度定まってくる」と期待を寄せる。【斎藤有香】
金縛りはないけど
金がなくて動けないことはよくある
https://twitter.com/jikishi/status/1044396059
オリンピック | ||
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男子 陸上競技 | ||
銅 | 1964 | マラソン |
円谷 幸吉(つぶらや こうきち、本名:つむらや こうきち[要出典][1]、1940年(昭和15年)5月13日 -1968年(昭和43年)1月9日)は日本の陸上競技(長距離走・マラソン)選手、陸上自衛官。
福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。
須賀川市立第一中学校を経て福島県立須賀川高等学校卒業後、1959年陸上自衛隊へ入隊。郡山駐屯地に配属となり、同僚と二人で郡山自衛隊陸上部を立ち上げる。次第に陸上競技の実績が認められ、自衛隊の管区対抗駅伝や、青森東京駅伝などに出場した。一方、オーバーワークから腰椎のカリエスを持病として抱え、後年悩まされるようになる。
1962年(昭和37年)に、東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊体育学校がオリンピック候補育成のため、特別課程の隊員を募集した際には腰痛のため選考会に出られなかった。しかし、円谷の走りを知っていた駅伝チームのコーチ畠野洋夫の推薦を受けて入校する。
体育学校入校当初は腰痛が治らず、満足に走れなかった。しかし畠野が根気よく指導し治療を続けた結果、レースに復帰。10月の日本選手権で5000mに日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれる。
翌年の1963年(昭和38年)8月には20000mで2位ながら世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して10000mのオリンピック代表選手に選ばれた。この段階では円谷はトラックと駅伝の選手と見られており、マラソンは未経験だった。しかし、陸連の強化本部長だった織田幹雄は円谷のスピードに着目してマラソンを走ることを勧めた[2]。
東京オリンピック開催年の1964年(昭和39年)に、同年3月20日の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位となる。それからわずか約3週間後の4月12日、オリンピックの最終選考会となる毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソンの前身。このときは東京オリンピック本番と同じコースで実施)に出場、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表となる。
なお、オリンピック本番までのマラソン経験3回は、戦後の男子マラソン代表では森下広一(2回)に次ぐ少ない記録であるが、初マラソンからオリンピック本番までの期間は森下が1年半あったのに対し、円谷は7か月でこれは戦後では最短記録である。
東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場し、6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。一方、最終日に行われる男子マラソンについては、日本人では君原と及び当時持ちタイムが一番良かった寺沢徹の二人がメダル候補、と目されており、円谷は経験の少なさのためあまり注目はされていなかった。
しかし、男子マラソン本番ではその君原と寺沢がメダル・入賞(当時五輪入賞は6位迄)争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きができなかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2時間16分22.8秒(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京五輪で日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。また銅メダルではあったものの、国立競技場で日の丸が掲揚されたのは、メダルを獲得した日本選手では円谷のみであった。
メダル獲得時、円谷は中央大学経済学部(夜間部)の学生でもあった。中央大学は師事した村社講平の母校で、箱根駅伝6連覇達成の記録継続中であった。箱根駅伝に出場することは、自衛隊体育学校との二重登録などの壁のために実現しなかった。
次の目標を「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」と円谷は宣言した。しかし、その後は様々な不運に見舞われ続けた。所属する自衛隊体育学校の校長が円谷と畠野の理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまで選手育成のために許されてきた特別待遇を見直す方針変更を打ち出した。吉池は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、結果的に破談に追い込んでしまう。直後に、体育学校入学以来円谷をサポート、婚約に対する干渉の際も「結婚に上官の許可(「娶妻願」の提出と受理・承認)を必要とした旧軍の習慣を振り回すのは不当だ」と抵抗した畠野が突然転勤となり、円谷は孤立無援の立場に追い込まれた。東京五輪で8位と敗北の後、結婚を機に鮮やかな復活を果たしたライバル・君原健二とはあまりにも対照的であった。
さらに円谷は幹部候補生学校に入校した結果トレーニングの時間の確保にも苦労するようになる。その中で周囲の期待に応えるため、オーバーワークを重ね、腰痛が再発する。病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症。1967年(昭和42年)には手術を受ける。病状は回復したが、すでにかつてのような走りをできる状態ではなかった。
メキシコシティ五輪の開催年となった1968年(昭和43年)の、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺。27歳だった。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。
「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました」から始まり、「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている遺書にしたためた家族達への感謝と、特に「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。また、同年のメキシコシティ五輪男子マラソンで銀メダルを獲得することになる君原も、大きなショックを受けたという。
- 遺書の全文(原文ママ)
- 父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
- 敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
- 勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
- 巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
- 喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
- 幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
- 正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
- 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
- 良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
- 光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
- 幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
- 立派な人になってください。
- 父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
- 何卒 お許し下さい。
- 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
- 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。
川端康成は、この遺書について、「相手ごと食べものごとに繰りかへされる〈美味しゆうございました〉といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切である」と評した(「『伊豆の踊子』の作者」の「十一」、『風景』1968年3月号初出)[3]。当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫はこれらの無責任な発言に対し『円谷二尉の自刃』の中で、「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」[4]と強い調子で批判し、最後に、「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」[4]と締めくくった。また、沢木耕太郎は「円谷の遺書には、(円谷が)幼いころ聞いたまじないや不気味な呪文のような響きがある」と述べている(『敗れざる者たち』所収「長距離ランナーの遺書」)。
円谷と接した人は口を揃えて、まじめで責任感が強く礼儀正しい好青年だったと評する。その性格はしばしば自らの不成績を責めるという形になって現れ、それを克服するためにオーバーワークを招きがちだったことが、自殺という悲劇につながったとする見方も強い(当時の日本陸上界は技術論より精神論を至上とすることがまだまだ多く、本人の意思に関わらず過度の練習を美徳とする関係者の慣習もあった上、メンタル面でのサポートやケアなどは考えられていなかった)。また沢木耕太郎は上記の自著の中で、1968年の正月に帰郷した際にかつての元婚約者が別の男性と結婚した事実を知ったことも、円谷が自殺に至った直接の引き金になったのではないか、という推論を述べている。
また後年、ピンク・ピクルスにより円谷の苦悩を描いた曲「一人の道」が発表された。
出身地の須賀川市では、業績を偲んで毎年「円谷幸吉メモリアルマラソン」が開催されている。また、実家には幸吉の没後に家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」があったが、遺族の高齢化により、2006年(平成18年)6月に展示品を市に寄贈したのち秋に閉館した。その後、市によって市営須賀川アリーナに展示コーナーが設置され、2006年(平成18年)10月の「円谷幸吉メモリアルマラソン」開催記念の特別展示を経て、2007年(平成19年)1月7日より「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開された。
円谷幸吉の自殺は日本のスポーツ史に最大級の痛恨事として記されている。円谷の悲劇の後、日本オリンピック委員会や一部競技統括団体では、オリンピック出場選手などのアスリートに対するメンタルサポートやメンタルヘルスケアが実施されるようになっているが、これは円谷の自殺が契機となった苦い教訓の産物でもある。