エルミタージュをアメリカンエキスプレスカードで支払う。600ルーブル。初めてロシアでカードを使用する。現金よりも有利なので。DVD,とコンビニはvisa.25日だけで計3回使用した。
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11時から3時30分まで作品をじっくり拝見する。30分休憩。イタリア美術を中心に。古代ギリシャの彫刻作品も。足が痛くなる前にホテルへ。DVDを390ルーブルで求める。
大塚 浩一 〜 無添加食品を広めよう
ワインの裏をよく見ると、頭痛の元になる亜硫酸塩の他に「ソルビン酸(保存料)」または「ソルビン酸K(カリウム)」と書いてあるのがあります。それが書いてあったら、インチキワインの可能性大です。
ソルビン酸は、劣悪な環境で作られたワインが、雑菌により腐敗したり糖分が再発酵を起こしたりするのを防ぐために使われます。まともなワインには決して入れません。ビン詰め段階でのみ入れられるもので、大量生産のワインにもよく見られます。
亜硫酸塩で十分保存性があるにもかかわらず、さらにソルビン酸を入れるということは、それなりの理由があるからです。最初は使っていなかったのに、有名になり売れるようになると、大量に生産するために、質の悪いワインを混ぜて量を増やし、ソルビン酸を入れて腐らないようにごまかします。味も当然悪くなります。
ソルビン酸は、毒性としては亜硫酸塩と同程度のものですが、これの怖いところは、他の添加物と一緒に食べると、強い発ガン性物質に変わるという点です。とくに、ハムや練り物製品などに使われる発色剤「亜硝酸塩(ワインの亜硫酸塩とは違います)」と一緒に摂ると、最強の発ガン物質となります。
ソルビン酸は非常に多くの食品に使われていますので、注意が必要です。亜硝酸塩入りのハムをつまみに、ソルビン酸入りのワインを一杯・・・なんてやっていると、あとあととんでもないことになるかもしれません。
防衛予算は、米国企業が吸い上げる。
防衛予算を増やすほど、米国企業が外国の国民の税金で潤うのである。
ただ、この範囲で言えば、政府支出1ドルに対して、国民所得は1ドル減少するか、ゼロであるようにも思うが、とにかく平均してマイナス9.8ドルの損失になっていることは紛れもない統計的事実なのだ。
EU25カ国、一カ国として、防衛予算の支出が、国民所得を減少させなかった国はない。
米国企業に貢いだ分を武器輸出で取り戻そうというのが経団連の腹かも知れないが、見通しが甘すぎる。
一握りの軍需産業が儲かっても、国民全体は必ず貧窮化する。
経団連の提言する道はそういう道だ。
戦争したがる総理や、戦争待望論をぶつバカな経営者と違い、国民が戦争と経済を取引したりしないと確信しているが、
軍事産業で経済が潤うなどと間違っても思わないことだ。
マリウス・プティパ(Marius Petipa、1818年(1822年など異説あり)3月11日、マルセイユ - 1910年7月14日、クリミア・グルズフ)は、帝政ロシアで活躍した、フランス人バレエダンサー・振付師・台本作家。クラシック・バレエの基礎を築いた人物である。日本語ではマリユスとも表記。
マルセイユに生まれる。父はバレエ振付師ジャン=アントワーヌ・プティパ、母は女優、ヴィクトリンヌ・モーレル。兄はバレエダンサー・振付師のリュシアン・プティパ。生まれたときにはMichel-Victor-Marius-Alphonseと名付けられた。1831年にブリュッセルのモネ劇場で初めて舞台に立つ。その後ベルギー独立革命を逃れて1835年ごろからはボルドーでダンサーとして活躍し、1838年ごろからはナントで活動する。1839年の北米巡業の後、再びボルドーに戻るも、興業主の破綻により1843年より4年間、マドリッドに活動の拠点を移す。
1847年、サンクトペテルブルクのマリインスキー劇場にてプリンシパル・ダンサーとして契約する。プティパがスペインを去ったのは、スペインでの情事のためとも言われる。その後はマリインスキー劇場でダンサー・振り付け師・台本作家として活躍を続け、1869年に同劇場のバレエ監督に就任。1904年の退任まで「眠れる森の美女」以下の三大バレエと呼ばれるチャイコフスキー作品をはじめ、数多くの作品を発表した。また1855年から1887年の間、付属バレエ学校の校長も勤めた。
晩年はクリミア半島のグルズフで療養にあたり、1910年、この世を去った
生まれて初めて来た美術館、空いた口が塞がらない状態、生きてて良かった。3時間30分。足が棒になった。名画の数々…特にレンブラントの部屋が良かった。35点。スケールが違う。ヤン・スターンのコーナーも凄過ぎる。あと何日通えばいいんだろう?600ルーブル。かなり高い。
9時45分から13時45分まで案内して貰う。1人じゃとても無理。ロシア人が初めて来ましたという場所に行く。レーニン記念館。20歳全半に1年観住んでいたアパート。30分位解説を聞く。その後タタールの大学に行き再度サンクトペテルブルクに戻り大学を卒業したとの事。何度も道を間違えて記念館にたどり着いた。