『 原子爆弾の歴史 』
通説
ナチス・ドイツが原爆製造に着手した
↓
米国はドイツ亡命のユダヤ人を招集
ドイツより早く原爆の完成を
目指して製造を進めた
事実
ドイツ1938年に原子爆弾の計画を立てます
しかし
連合国側はドイツには
原爆が造れないと判断しています
造れない理由→金が無いから
1943年1月 重水(原子核反応に必要な水)
が手に入らない理由で
ドイツは原爆製造を断念しています
原爆製造には膨大なお金と
時間が必要だったのです
マンハッタン計画の費用
現在価格に換算して300億ドル
開発時間…4年
300億ドルと4年かけて
出来た原子爆弾は4個
「マンハッタン計画の始まり」
亡命ユダヤ人
レオ・シラードは
アインシュタインの知名度を利用して
原爆製造を促す手紙
「 アインシュタイン書簡」を
ルーズベルトに提出します
アインシュタインはサインしただけです
(アインシュタインは
サインしたことを一生悔いています)
この手紙を元に
1941年原爆製造計画
「マンハッタン計画」
が始まります。
研究所の名前がロスアラモス研究所。
1943年1月ドイツが原爆開発を断念します
この時点でマンハッタン計画は
計画続行か中止かの岐路に立ちますが
続行されます
1943年5月
原爆投下は日本と決定されます
2年後
1945年7月
4個の原子爆弾が完成します
1945年7月16日
ニューメキシコで
その内の一つが核実験されます
長崎に落とされた原爆(ファットマン)と
同じタイプの爆風型です。
残り3個のうち
広島、長崎に落とされ
残るに1個は未使用のままでした
完成→核実験→広島、長崎投下まで
1ヶ月の期間です
いかに
アメリカが急いで
原爆を使用したかったか良く判ります
原爆を日本に投下するまで
日本に降伏されては
アメリカは困ったのです
2種類の原爆
広島タイプ(リトルボーイ)灼熱タイプ
長崎タイプ(ファットマン)爆風タイプ
を
日本の地で実験したかったのです。
日本は人体実験されたのです。
原爆に携わった科学者
レオ・シラード(発案者)
ドイツの敗北が決定的になると
原爆の実戦使用( 対日投下 )に反対した
彼の原爆製造目的はドイツ投下だったからです
しかし
原爆製造責任者の
ロバート・オッペンハイマーは
(ロスアラモス研究所・所長)
「原爆投下は日本に警告なしに
行なわれるべきだ」と
反日的な強硬論を主張します
彼は、最初から最後まで
投下目標を日本だけと論じており
ドイツを投下目標としたことはなかったのです
ロスアラモスで7月16日
最初の原爆実験に成功した際
オッペンハイマーは
狂喜して
「いま私は死神になった。世界の破壊者だ!」
と叫んだ。
所長を辞任する際
「人類がロスアラモスと
広島の名を呪う時が来るだろう」
という言葉を残している。
フォン・ノイマン
(亡命ユダヤ人科学者)
コンピュータの父と言われる。
ジェムズ・フランク
(亡命ユダヤ人科学者)
オッペンハイマーと違って
原爆対日投下には反対。
リチャード・ファインマン
(亡命ユダヤ人科学者)
エドワード・テラー
(亡命ユダヤ人科学者)
この2人
ファインマンとテラーが
スタンリー・キューブリックの映画
『博士の異常な愛情』に出てくる
博士のモデルとされる。
PS
原爆製造でウランを独占販売し
巨額の富を得たのは
ヴィクター・ロスチャイルド男爵です
彼の縁戚に
ロスアラモス研究所・所長
ロバート・オッペンハイマーが居ることを
追記しておく
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